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<<   作成日時 : 2008/07/08 22:36   >>

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正直、今日はぼけぼけでござんして…。

朝から財布を忘れて慌てて取りに戻るわ、戻った後、傘を忘れて途中で雨に降られるわ(折畳みがあったから良かったけどさ)、汗だくになって駅に着くと、ハンカチを忘れたことに気がつくわ、友連れでオフィスに入って、そこから出る際にIDカードを首に掛けるのを忘れてるわ、IDカードを首から掛けたつもりで外に出て、ふと見ると紐だけ掛けて、本体が外れてるのに気がつかないわ、IDカードを首に掛けたまま、駅までポソポソ歩いてるわ…まぁ、一事が万事こんな状態でした。

こんな日は早く帰るに如かずなんですが、結局、何時もと同じ時間に帰ったりします。

明日は何も起こらなければ良いのですが…。

太平洋戦争も末期になった、1944年、豪州では、Australian Aluminium Production Committee(AAPC)と言う組織が発足しました。
元々、1936年に航空工業自主独立計画として、Commonwealth社を設立して、Wirraway練習機を手始めに、Boomerang戦闘機の量産、第二次大戦に突入してからは英国からの軍用機供給が途切れた為、航空機生産省が国内の工場を総動員して、3つの鉄道工場で最終組立をさせたBeufort爆撃機と、Beaufighter戦闘機、1927年に創立したDe Havillandのオーストラリア支社が1942年からMosquito爆撃機を生産するなど、軍用機の生産が盛んになりました。

ところが、参戦当初は国内のアルミニウム圧延工場向けの地金が不足し、米国からの割当も未着で、国産地金を待望していました。
幸い、その初期の苦境はカナダから緊急援助2万トンの地金供給により凌ぐことが出来ましたが、一時は在庫が10日分を切る有様で、産業界の声に押され、遅れ馳せながら豪州政府も重い腰を上げ、1942年に4名の調査団が米国とカナダに送られてボーキサイトから地金生産までの資料収集を行い、更にそのうち2名は危険を押して、英国に渡り、スコットランドのLochaber、Kinlochleven、ウェールズのSwansea、イングランドのCheshireの各製錬所を訪問しました。

1943年、その調査団報告が提出され、アルミニウム製錬一貫工場を建設する費用として、年産2万トンのアルミナ工場建設費として75万豪州ポンド、年産1万トンの製錬工場に150万豪州ポンドを見積もりました。
この工場は、水力資源が豊富なタスマニア州に設置されることとなり、連邦政府とタスマニア州政府は共同で1万トンの地金工場、2万トンのアルミナ工場を建設することに合意して、300万ポンドの予算を計上、実施機関としてAAPCを設立しました。
このAAPCにより、国内各地でボーキサイトの調査が行われます。
実際の調査は、Department of National Development内の局であるBureau of Mineral Resources, Geology and Geophysicsが調査を担当しました。
また、英国本土のアルミニウム会社であるBritish Aluminium Co,Ltd.(BA)が豪州アルミニウム国産化に協力し、北部直轄領と当時は委任統治領だったパプアニューギニアでのボーキサイト探鉱の為、The New Guinea Resources Prospecting Co,Ltd.を豪州政府と共同出資で設立し、利用しました。

こうした調査の結果、1949年暮れに沿岸哨戒艇艇長が、Aruhem LandのTraunt島とWessel群島からボーキサイト鉱の見本を持ち込みました。
1951年10月にWessel群島の詳細な調査を行い、Marchinbar島に有望なボーキサイト鉱を確認し、本土北部直轄領(後のGove)にもボーキサイトが発見出来ました。
AAPCは1952年5月に、Marchinbar島の詳細調査を開始し、更にMelville湾にボーキサイトを確認しています。

Marchinbar島のボーキサイトは900万トンの可採量があり、タスマニア計画には充分であるとして、それ以上の調査を行いませんでした。
Melville湾の方は、港と東側海岸にあるYirrkalaの伝道教会の間の15kmの中間地点に、戦時中緊急避難用に設けた滑走路の直下からボーキサイトが発見され、BAが試掘権を申請しました。
試掘権申請面積は50平方マイル、地表に近い部分は豆状ボーキサイトでアルミナ分は50%、鉱量約650万トン、下部のセメント状部分のボーキサイトはアルミナ50%で鉱量は1,300万トンが確認されました。
但し、シリカ3%ですが、鉄分が19.5〜20.0%と高いのが難点だったりします。

この為、第1鉱区の試掘権はBAからCZCとBAの合弁会社であるコマルコに移管されましたが、コマルコの解消に伴いBAに移り、其の儘失権してしまいます。
その外周に第2〜第4鉱区がありましたが、1961年7月、民族資本のDuvalに18ヶ月の期限で探鉱が許可されますが、これも失効、その後はペシネーの子会社Gove Bauxite Co,Ltd.に1963年2月に許可されたものの、開発計画が連邦政府の条件を満たさないのでこれも失権しました。

以後、この鉱区は公開入札に掛けられ、アルスイスの豪州法人AustraswissとGove Alminium Ltd(GAL)との合弁会社Nabalcoが開発許可を得ました。
当初予定はボーキサイト採掘年500万トン、アルミナ生産年100万トンの計画でしたが、アルミナ工場の着工が1年遅れました。
この会社の採掘は現在も続いており、ボーキサイト生産は1985年に510万トンに達し、1998年には650万トンに及んでいます。
アルミナ工場も順次稼働し、年110万トンから開始され、現在では年175万トンとなっています。
この鉱区の残存確定埋蔵量は1.6億トンであり、アルミナ生産は2001年に200万トンに達しています。

因みに、日本もこの鉱区には興味を示していました。
1962年に後に大興金属と言う会社の社長となる市川直雄氏がこの地を訪れています。
この人は、日本鋳鋼所から日本曹達にスカウトされて二本木工場でアルミニウム製錬の研究に勤しみ、1937年にアルミニウム一貫製錬に成功したり、戦況悪化でボーキサイト輸入が途絶した時には、礬土頁岩によるアルミナ生産の為に一度人造ボーキサイトを製造し、バイヤー法に適する処理をしてアルミナを生産する手法を編み出すなど、一貫してアルミ畑を歩んだ技術者でした。

彼は、将来アルミニウムは、日本軽金属、住友軽金属、昭和電工の3社では賄いきれないと考え、八幡製鉄でのアルミニウム製錬を考えていました。
この時のアルミニウム製錬計画では、Goveのボーキサイトを輸入してアルミナを生産し、地金は第1期年産25,000トン、第2期年産25,000トン、合計で5万トンのアルミ地金の製錬工場を鶴崎か四日市に建設しようというものでした。

結局、この計画は業界の反対に遭い、通産省から許可を得ることが出来なかったと言います。
八幡アルミニウムの発想は、Lateriteからアルミナを製造し、並行して鉄原にも利用しようと言うものでしたが、後に膨大な競争力のある鉄鉱石が豪州から輸出される様になると鉄原として利用する必要は無くなります。
そう言った意味では、この八幡製鉄のアルミニウム業界進出はポシャって正解だったかも知れません。

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