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help リーダーに追加 RSS 地中から湧出る塩

<<   作成日時 : 2008/11/10 21:54   >>

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流石に朝6時前起きは辛い…ねもねも。

内陸部の塩の話をする前に、ちょっと秀吉の話なんぞ。

豊臣秀吉は、朝鮮出兵の頃、前線への補給を考え、瀬戸内一帯から水夫を多数徴発しました。
当然、自由な民である海の民は、徴発を嫌って逃散するケースが跡を絶たなかった訳ですが、赤穂中村と言う場所に、老婆を抱えて逃散も出来ず、かと言って、其の儘朝鮮に連れて行かれるのも嫌だと考えた漁師が居ました。

彼は一計を案じて秀吉軍に携帯食として魚を献上して、許して貰おうと考えます。
元々、赤穂の塩田では、浜男が浜溝で雑魚を捕って、これを取り上げた熱い(約110度)塩の中に入れ、魚の塩蒸しを食べていました。
塩漬けの魚ならば、日保ちがしてかつ塩分の補給も出来る一石二鳥の保存食となります。
彼は、自分が獲ってきた魚から、臓物を抜いて、塩田に運んで塩蒸しにして貰い、秀吉が宿舎にしていた那波大島山万福寺(現在の相生にあるお寺)に持って行き、其処にいる部将に献上しました。

この塩蒸しの魚が部将達にも喜ばれ、彼は秀吉の為に鯛のそれを作る様に命じられたばかりか、徴発を免ぜられ、更に西下する軍の携帯食を納入することにもなり、結果的に俄分限になったそうです。
これが鯛の塩蒸し(浜蒸し)の始まりと言われていますが、西下軍が各地の塩田でもそれを作らせたので、瀬戸内の名物として伝播していきました。
因みに、この名物、明治になると塩の専売制が施行され、こうした行為は厳しく禁じられることとなり、塩田での塩蒸しは消えてしまいました。

全く、明治の小役人のすることは(以下略。

閑話休題。

さて、瀬戸内を中心として、各地で海に面してそれなり広さの砂浜があり、後背地に適度な燃料(薪)を得ることが出来る地であれば、粗塩くらいは簡単に出来ます。
が、内陸部にはそんな塩水を得る事が出来ず、塩は沿岸地域から買う物でした。

信濃は越後糸魚川の商人や太平洋岸の駿河や伊豆などで生産された塩を馬背で運んでいましたし、京都の場合は、瀬戸内の塩は舟運で、畿内に運ばれ、淀川を遡って山崎津、後に淀の津で陸揚げされ、馬借、車借や塩座商人によって西国街道や大坂街道を京都に搬入され、日本海岸の塩は敦賀から勝野津に運ばれていましたが、その後、湖上輸送の進展から、今津に運ばれるようになり、更に戦国期には塩津、海津へと運ばれ、戦乱が激しくなると小浜から高島へ、九里半街道で湖東沿岸の商人によって運ばれ、更に伊勢の塩が八風、千草、鈴鹿の峠を越えて運搬されました。
日本海、伊勢の塩は近江にも入りましたし、瀬戸内の塩は、堺を通じて、或いは淀の津から木津川を遡って奈良に送られています。

この様に大体は、海岸部で作られた塩を内陸部では金銭もしくは代替商品を以て購った訳ですが、内陸部で塩が採れないかと言えば、そんなことは無く、日本でも内陸部で塩を作っていた所がありました。
尤も、死海やらアラル海と言った塩水湖が有る訳でもなく、大々的な生産は出来ませんでした。

その手段と言うのは、「温泉」です。
温泉と言えば、様々な成分から成っていますが、硫黄泉からは硫黄が採取出来ますし、炭酸泉を使って、ウィルキンソン炭酸やら三ツ矢サイダーなんかが生産されています。
同様に、ナトリウムを主成分とする温泉の水を汲み、煮て、塩とする事で、塩を採取していました。
特に猪苗代湖一帯では、塩泉を煎熬する製塩が行われており、例年、会津松平家から公方様への献上品として珍重されていたそうです。

この一帯には塩の付く地名が多くあり、大塩村、塩川、塩沢村と言った場所の塩泉からの塩作りについての記録が多数残されています。
塩泉から塩を作るのは明治末期まで続いたようで、1903年の大蔵省主税局の調査報告に、この地での生産高18石と言う記録があるそうです。
尤も、瀬戸内で1480年代に生産された11万石(約110万人分の必要量)に比べれば雲泥の差ですが…。

日光山の北方にも塩泉があり、此処では涌泉其の儘を用いたようで、随筆『甲子夜話』にも「焼き塩の様だ」と言う表現が出て来る位有名な物だったようです。

米沢では小野川温泉から採塩しましたが、この地では塩泉を塩田法で濃縮しています。
この小野川の一帯は、何処を掘っても温泉が湧出するので、平地に砂を敷いておいて、差潮を待って、塩が充分砂に浸透した時点で、砂を掻き集めて焼いて塩にすると言う製法を採っていて、これは仙台伊達家の入浜式塩田の方式を導入した様です。
また、上杉鷹山の改革の際には、小野川だけでなく西置賜郡の小玉川でも同じく製塩を実施していました。

この地方の製塩では、汲み上げた塩泉を直煮するものと、砂による濃縮→煎熬する方法の2つの方法がありました。
直煮方式は直径3尺、深さ7寸の銅釜或いは鉄釜・唐金釜を用い、薪を燃料としており、釜1基の生産量は、1865年の記録では、塩泉2石4斗5升を煮詰め、食塩1升9合(歩留まり0.7%)を得たとあります。
燃料費を適当に拾ってきた薪を用いて無償とするならば、1升110文となり、これを町場では124文で売れたので、1升当り14文の儲けとなります。
但し、燃料となる薪を購入した場合は、1升301文となって、124文で売ると大赤字になりました。
濃縮→煎熬方式では、浸出する塩泉を砂が含み、日光と風が水分を蒸発させ、乾燥した砂に付着した塩分を塩泉で溶出し、濃度を高めた塩泉を煎熬したと考えられています。
こちらは大規模な分、生産費は掛かったでしょうが、生産量もそれなりだった筈であり、充分ペイ出来たのではないかと推定されています。

この他、塩泉では明治末期に長野県大鹿村で年間1石の生産を報告している様です。
まぁ、いざと言う時の非常用か珍品扱いだったのでしょうね。

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