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昨日の震度2の地震の影響で、鯖の冷却ファンがおかしくなって起動しなくなったぶぁい。 10年以上前のUNIXだから部品があるかどうか…そんでもって、必要システムは全部その鯖の中。 ああ、2月の悪夢が蘇る…。 これだから、好い加減鯖を更新しろと小一時間(以下略。 で、結局、昼からお仕事でした…orz。 場合によっては、明日も会社になりそうです。 すわて、気を取り直して…。 織田信長の安土城建設に先駆けて建設された羽柴秀吉の長浜城の都市政策と設計・建設は、その後の織豊政権、また初期の徳川幕府の城下町建設に強い影響を与えています。 長浜は、近世城下町の典型的な空間構成理念を実現しており、建設に際しては元八幡町(現在の朝日町)に鎮座した八幡宮を城下外に移転して、琵琶湖に臨む城郭と武家地を二重の堀割で画然と隔て、移転した八幡宮から大手門に向かう大手町並びに天守からの「お見通し」になっていた本町を基軸にして長方形街区を以て整然と町割が行われています。 また、長浜城天守は、夏至の旭日に近い修験の山、伊吹山と、冬至の落日に近いこれまた修験の山、大悲山の見通しの軸上にあったりします。 更に長浜城天守から見て、夏至の落日の方位には、竹生島の宝厳寺がありますが、宝厳寺は水神の浅井姫命が鎮座し、浅井氏が手厚く保護したのですが、秀吉は長浜城建設の1574年1月にはその準備の為、宝厳寺に浅井長政が預けていた材木の引渡の書状を発しています。 則ち、長浜城天守の設定は、夏至の落日方位に宝厳寺があり、逆方向の冬至の旭日方位にはずっと延長して熱田神宮に届く線と、修験者の霊峰である伊吹山と大悲山を結ぶ線とのクロス位置にあり、尚かつ、長浜城と大悲山を結ぶ線を底辺とした1:√2:√3の三角形を展開すると、建部大社に行き当たり、建部大社からずっと延長して長浜城を通り、更に北東へ線を延長すると、長浜城と伊吹山を結ぶ線を底辺とした三角形の一方の頂点に達すると言う複雑な手法で創り出されています。 こうした複雑な手法での天守位置の設定は、黒田官兵衛の中津や堀尾吉晴の松江城を含め、織豊系の城下町にも幾つか見られるもので、1576年に織田信長の築いた安土城、1578年に津田信澄の築いた大溝城、1585年に豊臣秀次が築いた近江八幡城、1586年に浅野長吉が築いた大津城などにも影響が見られます。 藤堂高虎と言えば、二股膏薬の代名詞みたいに言われる戦国大名ですが、一方で趣味、城造りと呼ばれる様な感じの人でもありました。 1594年に宇和島に封ぜられてから、今治や大洲、伊賀上野、津など転封された先々で城を築き、更に徳川家康の要請で、篠山城の縄張も行っています。 高虎は1594年に伊予国内宇和8万石に封ぜられますが、その領内を彼方此方歩き回り、20カ所の城跡を検分した結果、1596年に板島に城を築く事にし、1601年頃まで堀や石垣を築いて、天守や櫓、門を建設しました。 この地は西側に海が開け、水軍の基地にするには都合が良く、加えて北、東、南に城下町を建設するのに十分な広さがあったからです。 城下町は、東部に辰野川、南部に神田川を外堀として整備され、1604年に竣工しました。 城自体は高さ73mの城山に築かれた平山城ですが、外郭平面形態は不等辺五角形であり、これを「空角の経始(あきかくのなわ)」と称して、一大特徴となっています。 因みに、後に幕府の隠密が潜入して、この地を探り、報告書を提出したのですが、その時、隠密は四角形と誤認している程の巧妙な形だったそうです。 天守の選定では、秀吉と同じく、権現山山高神社と天満神社を結ぶ直線と、天神と坂下津三島神社を結ぶ直線との交点に配しています。 また不等辺五角形の採用は、軍略上の要点として天守と主要な門との間は全て視軸上に置くと言う観点で、仮想敵の進軍を陸側から(海側は圧倒的な水軍により制海権は握れると判断した)設定し、陸方向への視軸が重視され、海側の辺には視軸が少なくなっています。 一方で、この不等辺五角形は陰陽五行に基づくものと考えられます。 五角形の5つの隅の内、北より19度東に振った線上には黒門・黒門櫓があり、この黒門の「黒」は陰陽五行に当て嵌めると「水」(黒・北)です。 その延長線上には藤堂高虎他歴代当主が崇敬する伊吹八幡神社があり、それを更に延長すると大三島大山祇神社に至ります。 この軸と直交するのが、「木」(青・東)であり、その延長線上に藤堂家の後に宇和島に入った伊達秀宗の代になって、宇和島伊達家菩提寺等覚寺が建立されました。 次の角は「火」(赤・南)で、この線上に一宮と呼ばれた宇和津彦神社があったとされています。 次の角が「土」(黄・中)で、その延長上に歴代当主敬神の三島神社があり、最後は「金」(白・西)で、延長上に住吉社があったと言われています。 この様に、城地の形成については、陰陽五行説の五行相剋図を当て嵌めた構図が成立するとされ、万一籠城する羽目に陥った場合でも、城兵を精神的に鼓舞する策を講じていた訳です。 1600年になると、高虎は関ヶ原の戦で福島正則と共に、東軍の先頭に陣取り、その戦功で宇和8万石から一挙に加増されて、伊予半国20万石に封ぜられます。 高虎は宇和島城を出て、河野氏の国分城に入城しますが、これを即座に撤収して、新たに海沿いに約39町北方の蒼社川左岸の「今張」と呼ばれていた遠浅の海岸を城地に決めて城普請を始めました。 高虎の狙いとしては、瀬戸内海交通の要衝である来島海峡を挟んで対岸の大島に睨みを効かせ、芸予諸島近海の制海権を握る事にありました。 1602年6月に、「今張」を「今治」と改め、大山祇神社の本殿と拝殿を補修し、無事完成を祈願して新城建設工事を開始しました。 この城の縄張は増田長盛の旧臣で新規召し抱えの渡辺官兵衛了が、普請奉行は木山六之丞が努めました。 1604年9月に城は完成します。 この今治城は平城で、高さ8間の天守台の上に5層5重の天守が築かれ、本丸東方には城主の居館を持つ二の丸を置き、幅30間の内堀で囲み、その外には上級武家屋敷が構えられ、更に幅20間の中堀で囲み、外側に下級武家屋敷を置いて幅8間の辰ノ口堀・外堀で囲い込んでいます。 何れの堀にも海水を引入れ、中堀の海側には広い船溜りを置きました。 本丸には天守を含めて櫓数4、二の丸・三の丸は櫓数3で東門を大手とし、その外には海に面して12の櫓が設けられて北門を搦手とし、城門を9カ所に配しています。 総櫓数19のうち、海に面しているのが12箇所、城門の内、本丸より海側に配置されているのは西門以外の8カ所となっているのは来島海峡を睨んでの事で、宇和島とは仮想敵の進軍方向が全く違います。 これは、万一、徳川家討伐を叫んで西から東上する軍勢が来た場合、対岸の来島城と今治城で挟み込み、制海権を握ろうとする高虎と家康の戦略がありました。 で、この今治城の天守の位置は、真北に産土神で伊予国の総社、一ノ宮である三島大山祇神社があり、真南には須賀神社があり、両社で北辰軸を構成する配置でした。 一方、大濱八幡神社と最初にこの地に封ぜられた高虎が入った時の居城国分山城とを結ぶ視軸があり、更に大濱八幡神社を延長すると来島城に達する海峡軸となります。 この海峡軸には、天守の他、三の丸北門、辰ノ口、衣干八幡神社など城下町の主要な施設を通る視軸でもありました。 縄張については主流だった円形の縄張をせず、又、宇和島とも違って、今治の場合は方形の「方郭の経始(かくのなわ)」で設計しています。 この方形の郭は、死角が出来る欠点を見抜き、「歪」つまり軍学上の「邪」「斜」「横矢」の工夫を入れていました。 「歪」とは、石垣の一部を張り出し、屈曲を付けて横矢などの側防効果を狙ったものです。 方形であれば、石垣や城壁を一直線上にして、火砲を幾重にも配置して一斉射撃の反復による敵の撃滅を狙う事が出来る訳で、取分け、火砲による敵との戦闘を重視した縄張だった事が言えます。 更に今治には「御船手」と言う水軍基地が設けられており、今治城は徹底した対水上戦の城だった事が判ります。 で、紙数が尽きたので、篠山と伊賀上野城は又明日。 しかし、高虎と言う人、楽しんで城の縄張をしていたような気がしますね。 |
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