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help リーダーに追加 RSS 偃武の城

<<   作成日時 : 2008/11/27 22:48   >>

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1615年、豊臣家が滅亡し、日本から漸く戦火は絶えます。
そうなると、城は攻撃又は防御の要塞としての機能を減じていきます。
とは言え、外様大名に対する要地防御としての機能を持つ城は未だ必要とされました。

例えば、1617年、明石に転封した小笠原忠真は、当初、明石西方にあった船上城に入城しました。
しかし、一国一城令により船上城は破却され、陣屋に近いものになっていました。
1618年3月、将軍秀忠は、忠真に対し、譜代大名で且つ小笠原10万石の格式に相応しい居城を建設するように、築城命令を下しました。
城郭の資材は、伏見城、三木城、船上城の遺財を使って構築され、坤櫓は伏見城、巽櫓は船上城のもの流用しています。
普請は1619年正月から、作事は1620年4月から始められ、10月に完成すると忠真は明石城に入りました。
しかし、1632年忠真は豊前小倉に転封し、譜代大名の居城として、本多、松平、大久保、松平、本多の5家が相次いで入城し、1682年2月、本多政利が陸奥岩瀬に転封して、5月に松平直明が6万石で入城し、漸く定着しましたが、城は1739年に早くも大修築が行われました。
と言うのも、安く上げる為か、流用材を多く用いていたのが裏目に出、彼方此方が老朽化したからと言われています。

明石城の建設は、将軍秀忠の肝煎りで行われました。
地選は、本多忠政を派遣し、領内を巡視させて戦略上の拠点を幾つか選択させ、築城の縄張案の報告を求めました。
候補地は塩屋、和坂、人丸山(赤松山)の3カ所でした。
この中から選ばれたのが、六甲山系の台地の西端に位置し、台地の南側には絶壁が形成され、西側には明石川、北側には伊川が流れており、台地の崖下から狭いながらも平地が広がり、明石海峡を前面に臨む堅固な自然の要害となっていた人丸山でした。

1618年10月、将軍秀忠は都筑為政、村上吉正、建部長政等を築城奉行とし、縄張は軍学者志多羅将監に、工事全体を本多忠政に命じ、作事奉行には小堀遠州を任用しました。
因みに、町割にはあの剣豪宮本武蔵を起用したと言われています。
明石城は連郭梯郭混合式の平山城で、本丸を中心に配し、東側に二の丸、その東に東の丸が配され、南側に三の丸、西側には稲荷郭が設けられました。
これだけ壮大な規模だったのですが、本丸に天守台が築かれたものの、天守は築かれず、四隅に巽櫓、坤櫓、乾櫓、艮櫓が建設されたに止まりました。

この城の役割としては、西国の外様大名が反旗を翻した場合、防御の第一線には姫路城を充て、第二線と姫路城に対する兵站補給基地としての役割を果たす城となるべき位置にあります。
この為、堅固な城にする必要があり、更に補給と封鎖に便利なよう、西国街道を付け直して城下町の中に引き込み、戦闘が勃発すれば、直ぐに封鎖出来るようになっています。

当時は、武家諸法度の制定や一国一城令の制定など、江戸幕府の安定化の為にも、城郭管理政策の仕上げが行われた時期でした。
その中で、例外的に外様大名の旧地に譜代大名が配属された明石、福山、尼崎は例外的な措置になっています。
それだけ、これらの地を要地と見ていた訳で、これらの城を築く為に、幕府の関与も積極的に行われ、資金の融通、奉行の派遣、資材の転用などの優遇措置が採られました。
この時期の新城建設は、「公儀の為の城普請」であり、大名家当主と雖も、その城は、自ら統治する為の城ではなく、公儀が建設した城を預かる性格が強くなっていきます。

当然、その建設には公儀の意志が強く働いている訳で、天守の代役としては天守台の側にある坤櫓を設定しています。

その視軸は天守台から見ると、本丸、二の丸、東の丸、西の丸の櫓や門に限定、則ち、公儀からの預かりの空間に限定した形で構成されており、城下町全体を見渡す様な城ではありません。
坤櫓からの視軸は土と堀から侍町への入口及び三の丸への城門、本丸、二の丸の主要門・櫓との視軸関係が生まれ、こちらは軍事的機能を果たしているように見えますが、西方に偏った視軸構成であり、東方の軍事施設を補っているのが巽櫓であり、双方の櫓でやっと天守の役割を果たしているものになっています。

どちらかと言えば、平時への転換にシフトしてきていると言えます。

もう一つの例として、赤穂城を挙げてみます。

赤穂と言えば忠臣蔵の話で有名ですが、城明渡しの場面で、籠城か開門かを巡り大議論をするところがあります。
この地には、1600年池田輝政が姫路に入封後、末弟長政を配しました。
1603年、長政が備前下津井に転封すると、赤穂郡代垂水半左衛門が治めますが、輝政の死後、1631年に輝興が赤穂池田家を再立藩し、再び当主を頭に頂く地になりました。
しかし、輝興は発狂し改易、1645年に常陸笠間から家康の妹の孫で名君の誉れ高い浅野長直が転封してきました。

1646年、長直は甲州流軍学を修めた軍学師範の近藤正純を総奉行に命じて縄張を行わせるなど築城の準備を進めました。
設計図が出来上がると1648年6月11日に絵図を添えて幕府に伺いを立て、17日に早くも許可が下り、11月15日に地鎮祭を執り行い、縄張工事を2ヶ月掛けて行った後、1649年正月2日に吉日を卜して根石置きとして本丸東北隅櫓の石垣を築き始め、1661年に完成します。

その間、長直は1650年に、小幡景憲と北条氏長の斡旋推挙で養子長澄と共に山鹿素行の門人となる誓詞を提出し、兵法を学び始めました。
山鹿素行は、1636年に小幡門四哲の1人だった北条氏長の弟子となり、1642年に奥義を伝授された軍学者です。
因みに、当時、幕府の命令で二本松城を築いていた丹羽光重も山鹿素行の門下に入っており、幕府としても新進気鋭の軍学者の理論を実際の城造りに役立てようとしていたと考えられます。

そして素行は、1652年、長直に招聘されて1,000石を与えられ、赤穂に赴き、1653年10月15日から1654年5月上旬まで赤穂に滞在し、二の丸周辺(虎口)と三の丸の縄張の一部を変更しました。
北条流や山鹿流には「方円の縄」と言う考えがあり、本丸は四角で構成されていますが、二の丸は円形に近い形をしている事からも、二の丸は山鹿流を取入れた事が判ります。

当然、天守台は築かれたものの、天守は築かれず、かと言って、天守台からの視軸も肝心の大手門や二の丸門、塩屋門と言った主要門への目配りが出来ていません。
その代わり、本丸南隅にある南隅櫓台がその天守の代わりを為し、実は天守台よりも重要な機能を持つ建築物だったのです。
この南隅櫓台からは城と城下町を結ぶ主要な大手門、二の丸門、本丸門、清水門や天守台を見通し、城下町と街道を結ぶ姫路・龍野からの東惣門枡形、備前岡山からの西惣門を見通す視軸もありました。
天守台の高さは4間半、南隅櫓堀水際まで高さ4間半であり、全く天守台と同じ高さであることが判ります。
因みに、東北隅二階櫓の石垣の高さは3間4尺でそのほかもこれと同じ高さなので、当初から天守を建てる気はさらさらなく、南櫓を天守代用とするのが明白だったのですが、何故か南隅櫓は建てられませんでした。

浅野時代の赤穂城下町は池田時代の城下町を拡張整備し、池田時代の侍屋敷を北、西、南に拡張して東惣門の南には浅野家舟入、清水門の東には御蔵屋敷が設けられ、町の北部の要所には花岳寺を始め10ヵ寺ほどが置かれ、城の出丸的意味を持っていました。
この寺の内、随鴎寺、遠林寺は水軍の屯所、常清寺は東惣門の為の屯所、普門寺、妙慶寺は姫路街道の守り、高光寺、長安寺、福泉寺は北の抑えで、花岳寺は浅野家の菩提寺としての機能の他、横町の屈曲部の守りとして配置されています。

城下町の北東、北西の惣門は枡形として城の外構えとし、姫路街道から天守に向かう街路を一部西に移動させ、城へ向かう道をT字形、鉤形の交差に造り、城郭への直進進入を阻むと共に、遠見が出来ない造りとし、侍屋敷の区画は南北に長く町屋が東西に長くなっていて、城下町の町割自体を防御の手段として使用するプランで、これは甲州流軍学に忠実に造られた城でした。

因みに、山鹿素行の『武教全書』に書かれた城の地選条件に赤穂を当て嵌めると、南一面は海に開け、三方は山に囲まれ、南北に長く千種川が延びており、東に千種川、南は瀬戸内海、西が備前街道、北は山崎山から雄鷹台、黒鉄山などの山々が連なる四神相応の土地となっており、素行の地選条件に忠実に造られた城地だったりします。

もし、南隅櫓が建てられていれば、もしかしたら、吉良邸討入りはなく、華々しく一合戦して大石内蔵助以下の家臣は散ったかも知れません…それは凄惨な事になったかも知れませんが。

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