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help リーダーに追加 RSS 長男と次男の意地の張り合い

<<   作成日時 : 2008/11/05 22:54   >>

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小浜の話でもしようかと思いましたが(苦笑、今日は高松と水戸。
一見、何の関係もなさそうに思えますが、時代劇や歴史好きの方ならピンと来るものがあるか、と。

1642年、生駒家の跡を継いで讃岐半国に移封されたのが、松平頼重です。
彼の出身は、水戸徳川家の祖、徳川頼房の長男でしたが、色々あって、水戸家の2代目は弟光圀に取られ、その代わりに讃岐という重要な地を任されました。
勿論、御三家出身者ですから、家格が高く、溜間詰で大礼がある場合は、京都への使者となる家柄でした。

その高松城下は海浜に接する沼沢地で、西部の山麓地方や旧河東川の河川敷に当る現在の栗林公園付近から瓦町・亀井町・外磨屋町方面の一帯を除き、一般に井水が不良で飲用に適さなかったりします。
しかし、城下が繁栄するにつれて良水が乏しくなり、庶民が飲料水に困っていた為、1644年4月、家臣の矢野部伝六に命じて水道の計画を立てさせ、高松水道を完成させました。

水源は亀井町にある亀井霊泉の湧水に求め、此処に新井戸と呼ばれる長さ27間(約50m)、幅9間(約17m)の矩形の貯水池を掘り、此処を切石積石垣構造とし、水が漏れないようにして、湧水を貯めるようにしました。
これは配水池の役割をも兼ねており、此処から木樋や土管を地中に埋けて南新町、丸亀町と言った繁華街や東北の城下一帯に通水しました。
住民が水を用いるのは、江戸の上水と同じく、要所毎に設けた共同井戸から汲み取って使用しました。

因みに、水戸本家が水道を布設するよりも19年早く、玉川上水より9年早いものです。

その後、更に人口が増え、既存の水道では水量に不足を来した為、補助水源を栗林公園の池沼と霊源寺池の湧水に求め、そのほかに亀井の不足を補う為に西瓦町にも大井戸を設けて、その付近一帯と福田町、築地町方面の飲料水に充てました。
こちらの大井戸も貯水池で、長さ22間(約40m)、幅8間(約15m)の矩形の切石積石垣を造り、其処に貯水する構造でした。

更に外磨屋町の藤森荒神境内に今井戸(これも切石積石垣構造の貯水池を設け、その付近と兵庫町、片原町沿道の需要に充てることにし、その後も、更に遠方の伏流水の集中する西浜新町の池を水源に選び、城下北海岸一帯への給水を実施しています。

これらの給水は箱樋・土管・竹樋が用いられました。
市街の道路には木箱樋を埋設し、辻々には木枡が設けてあり、共用水道として使用されています。
この木枡には2種類があり、木樋、竹樋を通じている枡は小型で、土管を通じている枡は大型で特に堅牢に作られていました。
また、木製でも箱樋は丈夫に造られていたようです。

維持管理の統括は町奉行が行い、維持、修繕費用は使用割合に応じる歩合を決め、関係町民が負担していました。

それから約20年後の1661年、徳川頼房の跡を継ぎ、光圀が第2代当主を襲封します。
当時の水戸は1625年、初代頼房が水戸城を修理すると同時に、下市東台の崖を切り崩して沼田を埋め立て、城下を開拓して住民の移住を奨励しました。
城下の方は繁栄しましたが、奥州街道に面した本町通り下町一帯は田町と呼ばれ、田圃を埋め立てた新開地だったため、井水が不良で非常に困惑しました。
其処で、1627年に吉田村の溜池2カ所から導水しましたが、水量が不足したのと、降雨毎に汚濁する為に、折角作った水道もその機能を果たせませんでした。

1662年、初の入国を前に光圀は、町奉行望月恒隆に内命し、領民の為の水道建設を命じます。
望月は平賀保秀を普請奉行として、市川三左衛門、三宅十右衛門を添役に任命し、領内の辰口堤その他の利水工事を施工して実施上の体験を積んでいる永田茂右衛門の嫡子勘右衛門を起用し、笠原水道の建設を開始させました。

普請奉行の平賀保秀は、元々堀田正孝に仕えていたのですが、故有って浪人し、水戸家に仕官した人で、関流の算術、数理、天文、地理に精通の聞こえが高かったそうです。
保秀は、下市から笠原山に至るまでの地勢、地質を調査測量し、笠原不動谷に湧く泉を水源として、千波湖の南に沿って導水し、これを下市地域に配水する計画を立て、望月もこれを実地見聞して、同意し、工事が始まります。

水道工事にこの工事が始まると、住民は喜んで賦役人足に従事し、予想以上に工事は進捗。
早くも1663年7月に竣工して、住民は水不足の苦難から脱することが出来ました。
こうして、光圀お国入り記念事業は成功裏の内に終わったので、施工を担当した永田勘右衛門は光圀から円水の号を賜り、かつ、麻裃の着用を許されたとありますから、如何に光圀が喜んだか推して知るべしか、と。

この円水の先祖は武田信玄の幕下で戦功を立てた人で、甲斐国黒川出身でした。
円水は父同様に採鉱の術、水利耕作に練達していたのですが、特に父よりも斬新な工法を工夫する人でした。

円水が採用した方法の一つが、提灯測量です。
笠原水道の建設に当って、土地の高低を調べた方法が、夜間に提灯を点し、それを並べて遠方から眺める方法だったのですが、その頃の千波湖は吉田神社の下まで広く湖面でしたから、普通に提灯測量をするのも難しかった為、円水は提灯の光を湖沼面に反映させて測量する方法を用いたそうです。

この笠原水道の水源は、水戸の人々の信仰篤かった笠原不動尊の石段左右にある4つの泉から為っています。
初代頼房の時代は木々の枝葉を折ることさえ禁じられていた地で、水源の涵養には非常に有利でした。
この湧水地を水源に、水路は全て暗渠とし、逆川を伏せ越し、藤柄町、紺屋町に出て銅樋を以て伊奈堀を渡り、七軒町より本町1〜10丁目を経て新町、細谷に至る総延長5,913間(約10km余)に及ぶ大規模なものでした。
この内、水源から藤柄町までの1,873間(3.4km余)は、特産の神崎岩を以てした厚さ3寸、深さ9寸、幅1尺1寸の岩樋と称する石造樋で、その継ぎ方は、漏水を防ぐ為に切り込みを行い、これに粘土目地を施しています。

支線は木樋、各戸への配水井戸へは竹樋を用いており、各主要街路の要所要所には共同井戸を設けました。
この共同井戸も神崎岩で溜池を造って井戸側様のものを取り付け、底部で導水樋に接続したものでした。

又、笠原水道の独特なのは伊奈堀水道橋で、屋蓋のある木橋に銅の厚板を接合して造った銅樋を架したものです。
銅樋は延長約10間(17m余)であり、厚さ1分の銅板を幅9寸、深さ8寸に接合してこれを木樋の内に収めて保護し、更にこれを屋根付の水道橋で渡しています。

この笠原水道の総工費は554両3分780文で、在郷人夫、足軽人足、町人足など工事に使役した労力費が大部分で、70%に当る415両余となっています。
とは言え、人足労賃は1日僅か鐚銭60文で、当時の大工や木挽に比べると非常に低廉な労銀でした。
これからしても、彼等の奉仕精神を駆り立てた(と言うか悪用した?)結果と言えるか、と。

材料費は残りの30%で、半額の72両3分225文は導水用の岩樋に充てた神崎岩の購入代金で、後は木材、松脂1貫500目で、粘土は全く購入しておらず、恐らく使役人足の手で導水路沿線近くの水田で必要に応じ田粘土を掘って流用したものではないか、と考えられています。

笠原水道の年々の修繕費は、下町の分は町民負担、武家屋敷は藩費で支出し、諸般の事務は関係町家の有力者3名を選んで分担させました。

長男と次男、双方の虚栄心のぶつかり合いがこんな所に見えて面白いですね。

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