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<<   作成日時 : 2008/12/12 22:26   >>

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それにしても、日本は遠いっすなぁ。
岐阜まで行って帰ってこようと思ったら、どう足掻いたって、1泊が必要と言う結果が出たので断念。
しゃあないから、新潟にでも行ってきます。

遠いと言えば、高知に行くのも非常に遠かったりする訳で…。
となると、どうしても情報は遅れがちです。

日本があのまま戦争を続けていた場合、オリンピック作戦と言う南九州侵攻作戦が実施される予定でした。

その計画では先ず、1945年10月27日に薩摩半島西方の甑島諸島を占領し、11月1日から米第6軍の各軍団、第1軍団の3個師団が宮崎海岸、第11軍団の3個師団が志布志湾、第5水陸両用軍団の3個師団が次上浜海岸と3正面同時上陸作戦を展開し、鹿児島県川内市と宮崎県都農町までを侵出線として占領し、この地にコロネット作戦支援用の空海基地を設定しようというものでした。
更に、第9軍団の3個師団が予備として、開聞岳正面に上陸する予定となっていました。

その揚陸作戦に先立つ事75日前から8日前に掛けて、即ち、8月11日から10月24日に掛けて、日本本土全域を攻撃し、残存艦船や航空機を掃討すると共に、本州と九州間の連絡を遮断、揚陸2週間前の10月17日から24日に掛けて、本州・四国・九州周辺の航空機、航空施設、船舶の徹底攻撃が行われます。
10月22日以降には、目標地域と北九州との遮断、特に南北連絡路と鉄道の破壊、逆上陸阻止の為に、北九州港湾の集中攻撃を実施し、10月24日以降は、水陸両用部隊である第40任務部隊の事前侵攻部隊と、第58任務部隊の機動部隊が目標沖合に出現し、目標地域を母艦機が制空する間、護衛空母部隊により目標地域を攻撃し、的の増援阻止を行い、同時に射撃支援部隊が目標地域を砲撃、掃海艇や水中処分隊が目標海域の掃海を実施します。

更に10月30日には、予備の第9軍団の内2個師団が、四国南部に対する陽動作戦を行う予定でした。

米軍の侵攻が10月下旬以降を予定していたのは、日本周辺の天候・気象状況を研究した結果、台風の襲来時期を避けたからでもあります。

その四国上陸作戦は陽動とは言え、2個師団8万人を動員する作戦とされていました。
10月23日、高知平野の沖合に戦艦3、巡洋艦6、駆逐艦10を主力として、支援艦30隻余りが姿を見せ、24日早朝から一斉に艦砲射撃の火蓋を切ります。
その射撃は、海辺一帯から稲生、里改田、野市などの町並みに降り注ぎ、空からも爆撃機が間断無く爆撃を実施します。
連合軍の支援砲撃や爆撃は6日間に亘って続けられ、町並みや陣地は徹底的に破壊されてしまい、10月30日午前8時過ぎ、上陸部隊が掩護射撃の下、先ず3個歩兵部隊が物部川河口付近に揚陸、次いで戦車部隊1個と、歩兵1個部隊が橋頭堡を拡大し、更に必要ならば残りの兵が第三次以降として上陸を開始する手筈でした。

さて、当時の大本営の本土防衛作戦については、大本営陸軍部作戦部長の宮崎周一中将が以下の様に述懐しています。
先ず各種特攻兵器を以て、来寇する敵を海上に攻撃し、敵兵上陸せば迅速果敢なる攻勢を以て敵が未だ橋頭堡を構成するに先んじ浮動状態にある間に之を撃破する
となると、本来防御計画もそれに準じるべきでした。
しかし、一面に於ては過去の戦訓から米軍が艦砲射撃や爆撃の激烈な事から防御陣地の位置、水際に置くか後方高地帯に置くかとか、陣地構築要領、特にコンクリートなどの資材欠乏から自然を掘削する洞窟式を多用する他は無く、兵力も根刮ぎ動員とは言え、当初より確定的には期待し得ない状況だったので、各防衛軍は最初から確然たる防御計画を策定するのは頗る困難でした。

1945年春の各軍の沿岸防御体系は必ずしも、大本営の方針にそぐわない点もあった訳です。

しかし、大本営が上記の作戦構想を立てた根拠は以下の様な理由からでした。
1. 本土決戦は国家を挙げての最終の決戦である。
 本土決戦は断固として絶対的に敵の上陸せる沿岸付近に求むるべきである。
 国土の内部に於ける抵抗の如きは計画上の決戦としては全然期待し得ざる事。
2. 敵の上陸直後の時期、沿岸水陸の地域は上陸軍の戦力発揮困難にして、我が陸海空統合戦力の発揮に
 有利なる事。
3. 上陸米軍にして一旦橋頭堡を占領する時は、その火力装備工事装備の絶対優勢なるに対し、日本軍の火力、
 突撃装備を以てしては突破に勝算無き事。
4. 本土地勢の特性上、重要航空基地の多くは沿岸付近に存在し、一旦之を敵軍の手に委ねんか我が軍爾後の
 作戦は著しく困難となる事。
5. 敵主力の上陸正面を確認したる上、その方面に決戦を指向せんとする思想は、作戦準備の不徹底、戦機の
 喪失、攻勢意欲の鈍化を招く処大なる事。

大本営にしても、第二総軍にしても、双方共5月上旬に沖縄での戦況に見切りを付け、沖縄陥落後の情勢については、従来の戦訓からも、関東での決戦を行うべく、次に上陸作戦を行うのは四国、九州の一部を占領するのが次の目標であると考えていました。
そして、もし九州での一戦に勝てば、関東平野決戦を遅延させるのみならず、敵の侵攻企図を挫折せしむる可能性もあると言う淡い期待を抱いていた訳です。
逆に、九州上陸作戦の阻止に失敗した場合は、士気の崩壊や軍需資材の払底で戦わずして腰砕けとなる可能性があると見ていました。

その侵攻時期は、第二総軍側では10月上旬、敵の兵力は四国を含み15〜20個師団と見積もっています。
敵は上陸前1〜2ヶ月は戦略爆撃を強化し、本土内の戦争遂行能力を徹底的に破壊する為、都市の徹底破壊や鉄道幹線、海軍基地の破壊を行うと共に航空戦力の破壊も強まる事を予想しています。
これに対抗する為にも、本州に於ける最精鋭師団である第36軍を早期に九州に転用する要請を大本営に行っています。

四国に関しては、1945年7月上旬の時点で第二総軍は、九州攻撃に先行、又は並行して四国攻撃をする予想を立てていました。
その理由として、四国が地勢上孤島的である反面、その地に航空基地を持てば、瀬戸内海、京阪神、西部本州の要地を制圧しうる場所となる上、九州攻略に先立ち、この地が敵手に渡れば、九州攻略を著しく容易にすると認識していました。

その上陸予想兵力は、宮崎平野に4〜5個師団、有明湾に5〜6個師団、薩摩半島に2個師団内外、四国が2〜4個師団、空挺部隊が1〜2個師団、予備に1〜2個師団としており、有明湾への上陸以外、ほぼ米軍側の作戦計画を喝破しています。

てな訳で、久々に軍話を続けてみる。

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
豊原が北日本の首都になるんですね わかります
島の人
2008/12/13 00:09

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