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実は今日二度目の記事を書いてみたり。 うっかりしていて、今日が義士祭であることをすっかり忘れていました。 さて、赤穂浪士の討入りと言えば、良く歌舞伎や浪花節、活動写真なんかで取り上げられる題材ですが、その際、必ず出て来るのが「山鹿流の陣太鼓」と呼ばれるもの。 実際には大石内蔵助は陣太鼓なんぞ打ち鳴らしては居ない訳で、実際には裏門を掛矢で打ち破って吉良邸に押し入ったので、その音が太鼓の音と間違えられた訳で。 で、これが何で山鹿流の陣太鼓と勘違いされたか、と言えば、少し前の記事で赤穂城の縄張について触れた様に、山鹿素行は赤穂浅野家と因縁浅からぬ存在で、浅野内匠頭長矩の祖父である浅野長直の時代に山鹿素行は赤穂淺野家の兵学師範に招かれて、家中の士の教育を行っていますし、長矩も弟の大学と共に、山鹿素行に入門しています。 更に、後年、山鹿素行は幕政批判の廉で赤穂謫居を命ぜられ、赤穂に蟄居中、大石内蔵助良雄の祖父大石良欽の家に出入りした事もあり、江戸雀達の中に、この様な話が自然と出来上がっていったものと思われます。 因みに、山鹿素行の教育では士道を強調し、清廉を尊び、金銭によって動く事を廃したので、長矩がこれを実行したから吉良上野介に嫌われたのだという説も無きにしも非ず…。 そう言う意味では、赤穂事件の遠因を作ったのは山鹿素行かも知れません。 全然関係のない話、吉良上野介は封土で出来る塩の恨みがどうのと言う話が実しやかに流れていますが、確かに十州塩に比べると吉良家の領地での塩生産は微々たるものだったりします。 しかしながら、塩の製法を聞こうとして果たせなかったとか、間諜を捕えられて云々と言う話は眉唾物で、寧ろ、労働集約型の産業であった塩の製法なんか、他国者でも誰でもオープンに参加出来るし、十州塩の業者もそうせざるを得ないので、この説も余り信頼が置ける話ではありません。 話を元に戻して、山鹿素行と言う人、前にも少し触れましたが、彼は1622年と言いますから豊臣氏滅亡から7年後に会津若松で生まれました。 6歳の時に父に伴われて江戸に出、幼くして漢籍を学び、9歳で林羅山の門下生となり早熟の秀才として知られました。 そして、15歳で小幡景憲に入門し、21歳で甲州流軍学の印可を授けられた訳です。 小幡景憲とその門下生であった北条氏長は、当時の軍法が戦闘法が主であったのに対し、流石に平和になった時代に戦闘術の様な物騒なものを研究するのはこれからの時代如何なものかと考え、治国平天下の道を唱道する方向に進め、戦争の技術学から国家護持の作法として、武士の学問としての道を説く様にしていきます。 こうした流れは、幕府としてもウエルカムだったので、この甲州流軍学を奨励したのです。 山鹿素行はこの小幡・北条の兵学を更に進め、武士道に代わる士道を提唱し、武士の教養の基本となる武教を説いていきました。 こうして、『武教小学』『武教要録』『武教全書』によって注目され、これを採用し、推し進める事で、武士の武官としての役割から行政官、即ち文官としての役割へとシフトしていく様に仕向けようと、大名家が挙って素行を雇い入れ、藩士の教育に当らせたのです。 赤穂浅野家もその一つで、浅野長直は1652年に素行を禄1,000石で召し抱えました。 しかし1660年、素行は赤穂での職を辞して江戸に戻り、塾を開き、子弟を教えます。 その内、素行は幕府が奨励する朱子学に疑問を抱き、それが現実に合わないとして、『聖教要録』と言う書物でそれを批判し、それが為に、素行は幕閣から処断され、赤穂謫居を申し渡されて、9年もの間、赤穂で生活していました。 その間は、専ら学問に専念し、多くの書物を完成させています。 1679年、素行は許されて江戸に戻り、浅草田原町に居を構え、家を積徳堂と号して多くの子弟を教え、赤穂浪士討入りの17年前の9月26日、64歳で没しました。 その後、彼の学問は実子高基(藤助)と、養子政実に引き継がれ、前者は平戸松浦家の当主松浦鎮信に、後者は弘前津軽家の当主津軽信政に登用され、両家で伝えられていきます。 その死は、素行の娘の子、つまり孫に当る津軽耕道の『山鹿誌』に依れば、次の様に描かれています。 1685年8月10日に病気を発し、9月下旬に重篤状態になりました。 この為、松浦鎮信、津軽信政、大島出羽守ら門人の礼を取っていた人々が集まり、懸命の手当をしています。 諸侯達は、或いは手紙を送ったり、或いは自ら赴いて医師を招いて治療を施すも容態は回復せず、松浦鎮信などは自ら籠に乗って、曲直瀬玄朔の弟子で四代将軍家綱の侍医である井関玄説の屋敷に赴き、往診を頼む事までしていました。 そして、9月26日に身罷った訳ですが、8月から病気を発した訳でなく、実際には克明に付けていた日記が5月9日で終わっている事から、その頃から身体の変調が始まっていたのではないかと思われます。 では、素行の死因は何か。 松浦家の家老滝川弥一右衛門の手記『滝川弥一右衛門蔵秘覚書』と言う文書があります。 これは、主君の命令を受け、素行の病床に侍り、主君に対する素行最後の教訓を聞き、臨終を見届けた記録で、素行は病床に赴いた弥一右衛門に対し、鎮信に対する建言として当主としての心構えを詳しく語り、多年懇情を受けた事についての感謝の意を述べてからこう話しています。 此の節重病追ってさしおもり、身体の色迄変易仕り候。身体の色迄変わった…とあります。 そして、「同年九月二十六日御死去。御病気は黄痰にて候」とあります。 素行は8月に黄疸が出て、1ヶ月半続いて死去した、つまり、彼の死は肝臓病によるものと判断される訳です。 では、素行はどんな肝炎だったか。 1ヶ月半で死去すると言う事は、最も考えられるのは劇症肝炎であると思われるのですが、劇症肝炎の主徴候は肝性昏睡が不可欠の条件です。 ところが、素行は死の直前まで意識がはっきりしているので、昏睡症状が出た訳ではありません。 となると、肝炎の可能性がありますが、現代医学では肝炎はA型〜E型まで知られています。 江戸期の日本人に見られた肝炎と言うのはA型肝炎だそうです。 A型肝炎でなおかつ急性であった場合には、意識障害が無く、劇症肝炎の定義に当て嵌らない重症型が屡々あるそうです。 従って、山鹿素行の死は、100%とは言え無いまでも(黄疸を起こす症状としては、他に慢性肝炎、肝硬変、肝臓癌、胆嚢癌もありますが、症状が余り当て嵌らないそうな…)、A型肝炎の重症型ではないか、と考えられるそうです。 |
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