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help リーダーに追加 RSS 第15方面軍の作戦

<<   作成日時 : 2008/12/16 23:30   >>

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昨日も書きましたが、第15方面軍は1945年2月に発足して以来、近畿・中国・四国の防衛を担任し、4月に新設された第55軍や第1次兵備で増強された兵団を指揮下として、主として四国南部と和歌山方面を重視して作戦準備の促進を図ってきました。
更に第2次兵備で動員が行われましたが、第2次兵備での動員では大部分が連合軍の攻勢主力と目されていた九州に配備され、四国には第205師団と独立戦車2個連隊の配備に留まりました。

そして、6月の沖縄戦の推移状況からして、本土への進攻時期を10月末から11月頃と想定し、九州・四国南部だけでなく、陽動で和歌山沿岸や日本海沿岸正面にも敵の揚陸が懸念された為、第3次兵備で動員された第344師団を高知県幡多郡宿毛方面に、その他、山口の萩、松江付近の日本海正面、和歌山沿岸に配し、総軍戦略予備として、姫路西方付近に1個師団を配備しました。

とは言え、硫黄島の失陥、沖縄の失陥により、制空権を殆ど失った日本は米軍機の空襲により殆どの地域が灰燼に帰す状態に陥っています。
これに対抗する為、方面軍は、高射第3師団の主力を京阪神の要地防空に充当し、敦賀・京都・和歌山・岡山・宇野・新居浜・高松・宇品・岩国・境港等に一部の高射部隊を配置して、諸港湾、中小都市や交通上の要衝防衛に当らせますが、殆ど成果を上げる事が出来ませんでしたし、指揮下の第11飛行師団による防空戦闘も、大きな成果を挙げる事が出来ませんでした。

因みに、第15方面軍は、司令部が大阪市にあり、第55軍と第59軍が麾下にありました。
四国を担任していたのは、前述した第55軍になりますが、第59軍は、広島に司令部を置いていました。
その麾下には、松江・米子付近に第230師団、萩・浜田付近に第231師団、山口県小串付近に独立混成第124旅団、直轄部隊として和歌山正面に第144師団、兵庫県龍野付近に第225師団、和歌山県御坊町付近に独立混成第123旅団、淡路島に独立混成第38聯隊が配備され、淡路島には他に由良要塞守備隊があり、専門部隊として高射第3師団の主力を持っていました。

第2総軍司令部の情勢判断では、連合軍の揚陸は九州南部と四国南部に行われる公算大であるとしていました。
四国南部の揚陸想定は、その地が交通不便である為に孤立化させやすく占領しやすい事、高知平野を占領した場合、その地に飛行場を展開し、小型機でも関東南部まで行動出来る利点がある事、更に必要とあらば、九州侵攻の助攻も出来る位置にある事と言う事から為されたものと考えられます。

その四国南部の揚陸には、広い砂浜地帯を有する高知平野が最も有力視され、次に中村平野、入野海浜が予想されており、更に宿毛湾は連合軍輸送艦の物資揚陸地や、連合軍艦艇の碇泊地として利用されるのではないか、と予想しています。
高知平野のうち、連合軍の攻勢正面となるのは、高知平野の物部川河口から浦戸湾東側に地域と予想していました。
この地域は、海上から一望出来る平地であり、防衛側にとっては余り有利な地形ではなく、且つ、拓けた地形であることから、大量の兵員や戦車が一気に上陸、展開しやすい地域でもあり、その上、この地域には飛行場も有る為、此処を占領すれば直ちに活用されて、航空機による火力支援が行われる事も考えた訳です。

その第55軍司令官には、第16軍(ジャワ派遣軍)司令官で、香川県那珂郡土居村(現在の丸亀市土居町)出身の原田熊吉中将が補されました。
原田中将は、当時57歳。
丸亀中学校から陸士、陸大を何れもトップの成績で卒業した秀才でありながら、豪放磊落な所も併せ持つ軍人だったそうです。
当初、第55軍の司令部は高知市にある城東中学校(現在の追手前高校)にあり、司令官の宿舎は八百屋町の旧家川崎家にありましたが、6月末に司令部は長岡郡新改村(現在の土佐山田町新改)の陣地に移動し、司令官もその地に引っ越していきました。

4月中旬の時点で、一朝事があった場合、四国の防衛は第155師団(護土)が高知県香美郡西川村に司令部と師団砲兵隊、速射砲隊、輜重隊を置き、高知県赤岡町、夜須町、西川村と徳島県立江町に各歩兵1個聯隊を配備しました。
満州から来た精鋭第11師団(錦)は高知平野に展開しつつあり、他には第2次動員で編成された独立戦車第45聯隊と第47聯隊が指揮下にあるだけと言うお寒い状態でした。
その後、第11師団は高知市鉢伏山に司令部を置き、高知市東部の稲生地区、仁井田地区、高知市西部の高森山にそれぞれ歩兵1個聯隊を展開し、挺身聯隊として騎兵1個聯隊が高知市五台山に、山砲1個聯隊、工兵1個聯隊、輜重兵1個聯隊が長岡郡に展開しています。

5月に第16方面軍麾下に編入された後、広島付近に所在していた予備の第205師団(安芸)が6月19日に第55軍麾下に編入され、高知に入ります。
この第205師団は、上陸した敵に攻勢を敢行する打撃師団として後免北方に配備され、長岡郡長岡村を司令部としました。
香美郡、高知市の岡豊山東台地、山田北台地に歩兵各1個聯隊が配備されたほか、野砲聯隊1個、迫撃砲聯隊1個、師団速射砲隊、師団機関砲隊、師団工兵隊、師団輜重隊がそれぞれ高知平野各地に配備されています。

更に第3次動員で第344師団(剣山)、独立混成第121旅団、野戦砲兵部隊が6月19日に編入されました。
第344師団は、幡多郡中村町に司令部を置き、愛媛県八幡浜市、高知県大方町、宿毛町に各1個聯隊、司令部所在地に師団噴進砲隊、師団工兵隊、師団輜重隊が配備され、独立混成第121旅団は徳島県勝浦郡八多村多家良に司令部を置き、徳島県勝浦郡に2個歩兵大隊、長生村、羽ノ浦町、徳島市に各1個大隊、勝浦郡に旅団砲兵隊と工兵隊を置いていました。

第55軍では、連合軍の上陸地点を高知平野の物部川河口から浦戸湾東側に渡る地点と想定し、主戦場をこの地に置く構想で作戦準備を進めました。
即ち、軍主力は高知平野に配備し、浦戸湾東側の鉢伏山(標高213mで現在の高知市介良と南国市稲生の境界にある山)に第11師団司令部を、物部川東岸の金剛山(標高214mで現在の野市町にある四国28番札所大日寺の東北地に所在)を拠点として、海岸洞窟陣地と相まって中央から反撃し、敵を水際で撃破しようという作戦でした。

この他、宿毛湾・入野地区及び徳島南部にも幾つかの兵団を配備し、敵の陽動攻撃にも対応出来る様にしています。

ただ、四国島内での兵力のみでこれを行う予定で進めており、増援は期待出来ません。
その兵力は、第11師団こそ編成人員が20,602名、第205師団は打撃師団だけあって20,301名と相応の兵力でしたが、第155師団は16,919名、第344師団は11,566名しか無く、独立混成第121旅団の6,016名、第55軍直轄部隊(20,000名)、第15方面軍直轄部隊、更に直接戦闘に加わらない通信隊や衛生隊を加えても総兵力約12万人でした。

因みに、第205師団の配備は第16方面軍からの引き抜きで行われました。
これは主力師団が第11師団の1個しかない状況で、敵の侵攻を受けても支えきれないと言う第15方面軍司令官内山英太郎中将の意見具申に基づくものです。

6月に行われた第344師団については、その裏に瀬島龍三が絡んでいます。
最初、瀬島と連合艦隊参謀だった千早中佐が南九州を視察していた時、両者が考えていたのは、米軍の今までの戦法からして、守備側の手薄な場所を狙うだろうというものでした。
となると、考えられるのは四国南部への上陸です。
其処で、南九州から直ちに高知に飛び、中村を視察した後、広島に取って返し、第2総軍の司令部で中村平野に1個師団投入を具申しました。
当初は、畑彦六元帥始め参謀達は懐疑的でしたが、30分の後、その意見はガラリと変わり、九州に回す予定だった1個師団を回す事になった訳です。

しかし、その師団は小銃すらも満足にない為体でしたが…。

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