眠い人の植民地日記

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<<   作成日時 : 2009/01/25 22:46   >>

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今日は休日出勤で息が詰まりそうでした。
予定時間より大幅に遅れたし…。

で、松江ブログばかりではちょっと書いている方も食傷気味なので、目先を変えて、アフリカに飛んでみたり。

16世紀、ポルトガルは、他の欧州諸国に先駆けてアフリカ沿岸に進出し、交易拠点を設置しました。
これらのポルトガル領土では、19世紀末まで沿岸部の交易拠点周辺に於ける奴隷と象牙の取引と言った搾取型の経済活動が行われ、後に進出した欧州諸国、例えば、英国、フランスの様に、内陸部に於ける支配、開発を殆ど行ってきませんでした。

これに転機をもたらしたのが、1884〜85年に行われたベルリン会議を契機とする欧州諸国によるアフリカ分割と、国際的な"effective occupation"の圧力でした。
ところが、ポルトガルlが主張する領土に於ては、実効支配が行われておらず、行政機構の整備も行われていませんでした。
例えば、現在のモザンビーク中部で最もPortugalの影響が強いとされてきたPrazo地域でさえ、ポルトガル人等は長年に亘る現地人首長の反乱を抑える事が出来ず、統治に不可欠な行政機構を設置することも無かったのです。

ところが、列強によるアフリカ分割を調整したベルリン会議では、植民地領有の原則として、確定領土内の全領域に於て経済開発を具現化させることを定めました。
この取り決めに従い、列強各国は相次いで探検隊や遠征隊がアフリカの内陸部に向かいます。
特に英国は、ケープタウンからカイロまでをスローガンに、積極的に内陸部に探検隊を送り込み、フランスとはファショダでぶつかったりしています。
これは元々、ドイツの帝国主義的野心を牽制する目的で行われた政策ですが、その影響をまともに被ったのがポルトガルでした。

1876年、ポルトガルは列強による自国植民地(と標榜する地域)の侵蝕に対抗する為、リスボンに地理常設委員会(後にリスボン地理学会)を設立し、数々の「探査隊」を派遣しました。
しかし、従来の歴史的権利を主張するだけでは植民地領有権としては不可能となっていた為、領有を主張する一帯のアフリカ人首長等と合意を結び、各地に一つでも多いポルトガル国旗を掲揚する必要が生じました。
こうして、1883年になると、ポルトガル植民地領域確定の為の地図作りが国策として開始され、1884年始めには3つの大規模な内陸部探査隊が送り出されることとなります。

ベルリン会議直後の1886年には、ポルトガル政府は、国会に於て、"mapa cor-de-rosa"、即ち、アフリカ大陸の東岸にあるモザンビークと西岸にあるアンゴラの間に広がる地域(現在のジンバブエやザンビアを含む地域)を描いた「バラ色の地図」を発表し、同領域を、"Provincia Angolomozambicana"(アンゴロモザンビーク州)と呼びました。
しかし、その北部にあるコンゴ・ザイールの領有権獲得に成功したベルギーの干渉と、アフリカ中部を通る大帝国領土建設を目論んだ英国の圧力により、この計画は頓挫します。

特に、ザンベジ川内陸部の領有権は英国政府との間で衝突の原因となり、植民地相Cecil J. Rhodesは、探検家David Livingstoneの伝道事業を利用し、英国政府が同地住民を保護する必要があると説きます。
これに応じて、1890年1月、英国のSalisbury首相は、ポルトガル政府に対して同地域から撤退する様最後通告を突きつけ、ポルトガルは涙を飲んで受諾することになります。
と言うのも、既に昔の栄光は今何処で、ポルトガルは経済的に英国に半ば従属していたからに他なりません。
結果として、「バラ色の地図」は画餅に帰し、1890〜1891年の英国政府との交渉に於て、モザンビークというポルトガル領が正式に誕生した訳です。

とは言え、本国の10倍以上の広さを持つこの領土を実効支配することは容易ではなく、更にこの時期、ポルトガルは重債務国の状態に喘ぎ、立憲君主政府を構成する進歩党政権は、薔薇色に塗られたポルトガルが、考える所の植民地領の一部(特にアフリカ中央部)を手放したことによって著しく威信を傷つけられ、存亡の危機に陥り、1891年1月から、共和主義者による反王制運動が活発化することになります。

共和主義者であるポルトガル共和党は、1870年代から力を付け始め、1880年にはリスボンでポルトガルが産んだ国民的詩人であるLuiz Val de Camoes没後300年記念祭を独自企画するなど、王政からの解放と言った共和主義的思想をナショナリズムと植民地主義を組み合わせる形で、民衆の支持を得ようとしていました。

其処で、追い詰められた立憲君主政府は、特許会社を通じて商業・鉱業利権、徴税権、土地譲渡権を付与し開発に当らせると共に、他方、ポルトガル国軍による制圧キャンペーンを実施し、ポルトガルの支配を認めていない集団を完全に支配下に置くことで、「実効統治」への国際的な圧力を回避すると共に、植民地領の堅持を試みました。
この結果、80万平方キロメートルを占めるモザンビークの65%が、特許会社に付与されることになりました。
モザンビーク最北部から南へ全土の25%がNyassa Companyに、ザンベジ川流域に相当する15%をZambezia Companyと諸特許会社に、中部の25%を占める部分をMozambique Companyが獲得することになります。

これら特許会社への植民地領の賃貸借契約は、「実効統治」原則を押し付ける列強の介入を回避する一方で、植民地の資金を集める為に行われたのですが、この資金により、植民地軍や特許会社に領内で多発していた住民叛乱の鎮圧を目指していました。
特にザンベジ川下流域では元々この地がPrazoと言う部族支配地であった為、何世紀もの間、ポルトガルに対抗する現地住民の武装抵抗が続いていました。
1888年にはアフリカ人首長連合による「反ポルトガル植民地運動」が激化し、これに手を焼いたポルトガル政府は、Mozambique Companyにこの地を平定することを条件に、特許を付与したのですが、Mozambique Companyにはこれを効果的に平定し得なかっただけでなく、より強い叛乱を招く結果となりました。

この叛乱を主導したバルエの首長ハンガは、「Mozambique Companyを土地から追い出すこと」を戦略目標に掲げ、従来、首長同士の対立を利用された苦い経験から、ザンベジア周辺の多種多様な民俗集団、あるいは人種を越えた連合を形成しようと試みた上、植民地支配を回避する為に、列強や資本間の軋轢も上手く利用しようとして、主権を維持しようと務めていました。

彼はこう述べています。
長い間、私は白人の友人を持ちたいと考えていた。私は白人が次第にアフリカに進出し、私の国の全ての方向で企業が活動するのを見てきた。
ザンベジ川には蒸気船が運航され、ベイラからマショナランド(当時のローデシア)まで鉄道が延び、ウムタリ(ローデシアとモザンビークの国境)や他の所には町が出来上がった。
私の国も又、これらの改革に追いつかねばならないだろう。
私は国を白人に開く準備がある。だから私の国で金を探し、昇天を作る許可を与えたのだ。(中略)
私は、英国人とドイツ人が私と共にいることを嬉しく思う。
ポルトガル人だけが、此処に留まることを許されない。
現在、私は彼等との戦争を遂行しており、この戦いを続けるつもりである。
私の父達は長い年月彼等と戦ってきた。
この古い敵対関係の印として、昔我々が殺したポルトガル人の指輪を首に掛けている。
このモザンビーク中部の地域であるハンガを中心とした武装抵抗は、バルエ地方を反ポルトガル植民地支配運動の拠点として一躍有名にし、その名はモザンビークの最も内陸部にある町ズンボから、インド洋沿岸地域にまで轟かせることになります。

1901年の段階でも、Mozambique Companyの関係者はConselloに関する会合議事録の中で次の様に書いています。
バルエの叛乱は、脅威を生み出している。
なぜなら、Mozambique Company会社領内の多くの住民は、ポルトガル政府の特権を殆ど尊重せず、弱い軍に対して恐れを成さないからだ。
原住民は、日々、税の支払いや強制労働の提供に躊躇しつつあり、現在のバルエの状況を望ましいものだと考えている(中略)…野心のある者が、会社領内の住居を棄て、バルエに移住しようとするのは自然なことだ。

このバルエの叛乱は、バルエに隣接するモノモタパ王国にも影響を与え、かつては対立していた筈の国王シオコは、ハンガの反ポルトガル同盟を受容れることとなり、これに脅威を抱いたポルトガル政府は、Mozambique Companyに善処を要請したが効果は見られず、遂に1901年、自ら鎮圧に乗り出すことになりました。
1902年6月から、西方のアンゴラ、直轄領のロレンソ・マルケス、イニャンバネ、モザンビーク島などから2万人のアフリカ人兵士や警官が集められ、バルエに派遣される事になります。
激しい戦闘の結果、1902年末には近代装備と多数の兵士を動員した植民地軍はバルエを制圧し、捕えられた地元首長等は、大西洋上の島、サントメ島に送られますが、ハンガとその他の首長はローデシアに逃れる事になりました。

もう一つの特許会社であるNyassa Companyは1891年にリスボンの商人達によって設立され、1894年には会社の正式な目的をニアサ湖の開発とします。
しかし、実際には同社はインド洋に点在していた奴隷貿易の中継地点に会社の出先機関を設置し、これらの貿易の分け前を関税として吸い上げる方法で歳入の大半を賄っていました。
当時、奴隷貿易は英国などによって禁じられていましたが、「自由意志」に基づく移動労働は認められており、インド洋上のフランス領諸島への「労働力送り出し」の任に当っています。
こうした奴隷貿易は、18世紀半ばから行われ、"gun-slave cycle"が出来上がっていました。

このサイクルは、アフリカ人首長が奴隷確保の為に戦争を起こし、確保した奴隷を商人に売ることで銃を手に入れる、と言うものですが、その戦争から身を守る為、相手の首長は、自ら奴隷を確保してそれと引き替えに銃を手に入れると言う一連のサイクルで成り立っています。
これにより、アフリカ人社会は銃や銃弾の確保と軍機構の整備が進むと言う武装化が進みますが、19世紀末には、これを同胞に向けるよりも特許会社や植民地政府に向ける様になります。
そこで、1896年にモザンビーク総督府は火器取引を全面停止する法律を制定しますが、今までの"gun-slave cycle"にどっぷり浸かっていたNyassa Companyはそのサイクルが絶たれて、存亡の危機に陥りました。

財政危機に陥ったNyassa Companyは、1897年に英国のIbo Investment Trustに支配され、1898年に彼等は関税以外の収入を確保する為、領域内のアフリカ人住民に小屋税を課税します。
ところが、Nyassa Companyが集めた小屋税は、僅かに776ルーブルに過ぎず、この課税徴収を確実化する為にも、内陸部への軍事遠征を活発化させる様になりました。
この時期、モザンビーク郡では、インド洋沿岸地域から内陸部に向けて植民地軍が軍事制圧を開始しており、1899年になると、Nyassa Company領内での叛乱鎮圧活動に着手します。
当然、こちらも激しく抵抗した訳です。

ところで、20世紀に入ると、南アにあるヨハネスブルク周辺のラント地域で、鉱山労働者不足が深刻化する様になります。
鉱山会社だけでなく、これらの会社に投資した英国本土の資本家達も、このアフリカ人労働者不足に頭を悩ませることになりましたが、丁度その頃、御誂え向きに彼等の手中にあったのがNyassa Company。
1908年、彼等はロンドンにNyassa Consolidatedを結成し、本格的にNyassa Company経営に参画し始め、この会社を通して、南アフリカの鉱山へ労働者を送り込む事を始めました。
そして、この労働者派遣で追加利益を獲得したNyassa Companyは、各地で武装抵抗している住民達を平定する為に彼等に戦いを挑むことになります。

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内 容 ニックネーム/日時
 奴隷貿易に首長の側が積極関与したという面もあったとは.
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2009/01/26 22:00

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