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アフリカ南西部にあるナミビアと言う国の地図を見ると、アンゴラとボツワナとの間に楔を打つ様に、細長い回廊が形作られ、これが奥地に延びて、ザンビアとジンバブエに接しています。 実は、このナミビアの回廊は、ザンビアとジンバブエの領土に完全に食い込んでいる訳ではなく、此処からザンビアとジンバブエの国境線は、ザンベジ川に沿って形成されており、この河川を使えば、東海岸に抜けられる様になっていました。 ポルトガルは、アンゴラからモザンビークまでを横断する「バラ色の地図」を描いていましたが、この計画は英国の横槍で頓挫しました。 しかし、これに手を差し伸べ、両方の植民地をともかくも繋ぐことが出来る様にと、国際河川を通じた自由通航権を付与したのが、当時、南西アフリカを領有していた「遅れてきた植民地帝国」であるドイツでした。 第一次大戦当時、ポルトガルの有力者は親英派と親独派に分れて争っていました。 しかし、政権を担っていた民主党内閣(1910年の革命で王制は廃され、共和制となり、民主党が内閣を作ります)は、ポルトガルの共和政府に対する列強の認知確保、ドイツが野心を示していたアンゴラ南部、モザンビーク北部と言った植民地防衛の為、連合国側に付いて参戦する意志を表明します。 そして、1916年2月、英国政府の要請により、ポルトガル政府はテージョ川に浮かぶドイツ商船を接収し、対してドイツは翌3月に宣戦布告を行い、ポルトガルとドイツとの戦端が切って落とされました。 アフリカでは既に、1914年8月の段階で、ドイツ領東アフリカ(現在のタンザニアのアフリカ大陸側)に駐留していたドイツ軍が、モザンビーク北部国境沿いにあるキオンガ三角州を攻撃し、Nyassa Company所属兵士が死亡する事態を引き起こしていました。 ポルトガル政府には、この攻撃直前に植民地防備の為、本国から最初の遠征軍を派遣し、11月にモザンビーク北部国境近くのPorto Ameria港に15個大隊1,500名の兵士を送り込みました。 しかし、この地は瘴癘の地であり、兵士の20%が病気などの理由で、任務に就くことなく半年以内に帰国します。 1915年10月、第2陣の遠征隊1,500名が派遣されますが、今度は何と75%が病気によって任務に就けないと言う為体でした。 対するドイツ軍は、Von Lettow Vorbeck率いる300名の欧州人兵士と、1,700名のアフリカ人民兵(askaris)、3,000名の輜重卒で構成され、地元首長に同盟と叛乱を呼びかけるなど、地域事情に熟知した戦闘を実施しています。 ポルトガル軍は、唯でさえ、地元の首長達と不断の戦闘を繰り返しているのに、更にドイツ軍とも戦わなくてはならなくなり、英国軍に泣き付くことになります。 こうして、1,000名の英国軍兵士がPort Ameria港に入ると共に、1918年には、英国保護領のニアサランドとローデシアから、2個師団が援軍としてモザンビーク入りしました。 しかし、実際には交戦は少なく、ドイツ軍兵士をして、「何とコミカルな戦争」と呼んだ鼬ごっこを繰り返したに過ぎません。 結局、モザンビークに於ける戦闘は、1918年9月にドイツ軍が同地を去ることで終了しました。 そして、残されたアフリカ人首長達は、装備を強化したポルトガル植民地軍との戦闘の敵ではなく、続々と鎮圧されていきました。 因みに、19世紀末からこの時期に掛けてのアフリカ人達の抵抗は、現在では「初期抵抗」と言う言葉で説明されています。 これらが植民地解放闘争の源泉であると認識されているからです。 最後の抵抗を行ったマコンベ人は、最も早くから植民地解放闘争を始めました。 この間僅か47年でしかありません。 また、これらの初期抵抗は、後の解放闘争指導者達にも影響を与え、民衆を扇動するのに利用されてきました。 例えば、モザンビーク最北端のニアサ州の植民地解放軍基地は、最南端にあったガザ王国最後の王Gungunyanaの名前を与えられていますし、FRELIMOの初代書記長モンドラーネ、二代目書記長マシェルも、こうした抵抗の英雄物語を聞いて育った人々です。 ただ、これが後の植民地解放闘争のような大きなうねりにならなかったのは、それらが王国、同盟、氏族、家系による個々の武装蜂起であり、広範な運動を形成し得なかった為でした。 この時期のモザンビークには、地理的な文化、社会的な分断を越えた政治的結合が生じる為の諸条件(交流、思想、通信技術、統一政体など)が存在せず、逆に植民地軍側は、意図的に首長間の対立を利用して制圧活動を行い、分裂を現地人の間に齎した訳です。 当然、使用する武器は植民地軍に比して貧弱で、植民地軍側は、常に叛乱首長達よりも兵力を多くした重厚な攻撃布陣で相対する事も、結果的に現地住民達に無力感を与え、現地住民の分裂に拍車を掛けています。 後にモザンビークの大統領となるマシェルは、この初期抵抗の時代のことをこう総括しています。 人民の歴史的抵抗の敗北は、封建的支配者階級の大逆に起因するものであり、彼等の強欲と野心が、敵に人民を分裂させ、征服させることを可能としたのだ。一方、後にマシェルと相対する事になるポルトガル植民地政府の対「叛乱」政策の原型もまた、この時期の制圧活動に確認できます。 以下の文章は、モザンビーク中部のベイラ知事から、バルエ叛乱の鎮圧に向かった軍司令官への手紙です。 君たちは、叛乱村の全てを焼き払い、全ての畑を壊さなければならない。彼等の牛を全て接収し、女性と子供を含む出来る限り多くの囚人を捕えろ!(中略)地元住民を恐れさせ(テロライズし)、将来の叛乱を予防する為に、これらの行為が出来るだけ早急にかつ暴力的に行われる事が何よりも重要である!徹底的な暴力の利用による「畏怖戦略」は、以後も繰り返し行われる事となります。 1917年4月、モザンビークの植民地政府は、ソールズベリ駐在の英国総領事に対し、機関銃と連発銃の大量供給を依頼し、軍備増強を図ろうとします。 一方の英国政府は、この動きを脅威と見なし、ベイラとローデシアを結ぶ鉄道と英国資本が所有するショーナ砂糖会社を守る為、古い武器を少量提供し、2個小隊を派遣するだけに留めました。 とは言え、植民地支配と資本主義に抵抗する解放運動と言う書式の萌芽が既にこの頃には見られている訳です。 因みに、武装闘争が抑え込まれた時、モザンビークの現地人達はどんな方策を採ったか…。 昨日も書きましたが、鉱山開発や大規模プランテーション農業もやっていなかったモザンビークでの植民地政府の収入は、「人」からでしかありませんでした。 1つは小屋税の徴収、もう1つは南アフリカの鉱山に対する原住民送り込みです。 その為に、行政網を整備し、「人」を効率的に南アフリカの鉱山に送り込む様にしていきましたが、これを達成させない為には、その資源を無くせば良い訳です。 即ち、ローデシアの役人曰く…。 原住民は常に国境を越えることで税の支払いを逃れてきた。つまり、逃散です。 しかし、段々と地域社会内部に植民地支配が根付いていくと、この形態の抵抗も困難になります。 植民地政府は、当初、アフリカ人住民に税を課することで、現金収入を得る様に持って行き、結果として安価な労働力を作ろうとします。 これには住民は自ら賃金が高い周辺諸国へと出稼ぎをすることで、対抗しようとします。 こうなると、安価な労働力の確保は出来ません。 其処で、植民地政府は、出稼ぎに自らが介入することで、斡旋料を得る様にします。 これには、原住民も抵抗できませんでした。 ローデシアのザンベジア出身出稼ぎ者はこう述懐しています。 ポルトガル人は小屋税を要求した。特許会社も同様に、会社領内住民の周辺諸国への「労働力輸出」を積極的に行い、結果としてモザンビーク住民の自主的・強制的流出は一段と強まっていきます。 こうして、1910年前後の植民地政府が獲得した外貨の大半は、周辺英国領資本による鉄道・港湾設備使用料と出稼ぎ労働者利用料から生み出されることになり、また、ポルトガル本国との結びつきは弱く、周辺諸国、特に英国領土の経済活動に依存しつつ、植民地支配が行われたのでした。 しかし、1910年代のモザンビークの話を書いているのに、今の日本の派遣労働者問題も似た様なもんだなぁ、と思ってみたりして。 |
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