眠い人の植民地日記

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help RSS 他人の不幸は蜜の味

<<   作成日時 : 2009/01/28 21:45   >>

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先日来、立ち仕事ばかりだったので、とうとう腰が悲鳴を上げ、今日はお休み。
まぁ、未だインフルエンザでないだけマシでござんすが…。
会社では既に3名がソ連に撃沈されているので、何時こちらに飛び火するかと戦々恐々としております。
一応、予防接種は行っているのだけれど…。

1930年代後半、ポルトガルの隣国であるスペインで内戦が始まります。
また、その内戦終結後には、欧州全体を巻き込む第二次世界大戦が始まり、その波は、1941年以降、全世界に拡大していきます。

こうした中、それまで農業を中心としていたポルトガル経済は、輸入減少と市場拡大を受けて、代替工業が成長し、逆に輸出を促進していきました。
特に、北部の綿織物産業、首都近辺のタバコ、造船、化学肥料が著しい成長を見せます。
綿織物産業に関しては、従来その分野で活躍を遂げていた隣国スペインが内戦でのインフラ破壊で機能を低下したことに伴う代替として発展していきますが、綿花需要が増した割には、1936年の時点ではその原料綿花の77.3%が外国産で占められており、植民地産は相当のてこ入れを行ったにも拘わらず、やっと1930年代初頭の倍近くにしか成っていません。

1937年当時、モザンビークでは、全農村住民に綿花栽培を義務づけていたにも関わらず、農業人口390万人の内、綿花栽培に従事していたのは僅かに8〜10万人程度しかいませんでした。
そこで、植民地政府にとっては植民地の原料綿花増産が至上命令となります。
但し、植民地を効果的に統治し、且つ、植民地住民が望まない綿花栽培を強制させる術を持たない事から、この事業は民間企業と共に実施することで活路を見出そうとします。

1938年、Junta de Exportacao de Algodao Colonial(植民地綿花輸出連盟(JEAC))が設立され、農業省から植民地に於ける綿花の増産と独占の業務を引き継ぎ、綿花栽培から販売までを一手にコントロールすることになりました。
先ず、JEACは、綿花栽培に適したと考えられる地域を民間会社数社に分与することを始めます。
19世紀末から20世紀初頭に掛けて行われた特許会社と同じ考え方です。
これにより、綿花会社は広大な「管轄地」を手に入れ、今まで綿花を栽培していない地域をも綿花栽培に向けさせると共に、それ以前には植民地支配の影響を余り受けていなかった地域を、植民地体制に包摂する契機になりました。
特に、モザンビーク北部は、総面積の実に半分以上が綿花会社の占有地となりました。

とは言え、従来の特許会社と違って、綿花会社が全てを自由にできる訳ではなく、JEACの統制下に置かれた為、管轄地に於て何よりも綿花生産を最優先させなければ成らず、そうしない場合は政府から圧力を受ける上、綿花輸出に於ても本国以外は売却できないと言う制約を受けていました。

綿花増産を支援する為、1937〜38年に植民地行政官吏の末端に位置していた行政ポスト長の権限は強化され、綿花栽培の「奨励」に反対する者を処罰出来る権限を持つ様になり、合法的に綿花の強制栽培を行える様になっていました。
その結果、綿花強制栽培の導入は、綿花生産量の上昇を齎しただけでなく、植民地支配者の難問であった植民地にいるにも拘わらず、植民地支配の影響を受けていない地域の包摂を可能とする事となりました。
更に、モザンビーク農村の全住民は、名前・居住地・畑のサイズ・タイプ・種の質・草抜きの回数・収量等を記載した栽培者カードを携帯することが義務づけられ、行政機構の整備、住民登録の実施、貨幣経済の導入、農民の現金収入と徴税の未達成が一気に解決されることになります。
こうして、1940年には綿花生産従事者は100万人を突破しました。

第二次世界大戦が始まると、今までの主要綿花栽培地域だった米国やアジアからの原材料入手が困難となります。
これにより世界市場での綿花不足が加速し、国際価格を上昇させることになりました。
綿織物も同様で、品薄の為、世界的に国際価格が上昇し、ポルトガルにとっては国際収支を改善させ、経済を活性化させるだけの絶好の機会を手中にしていました。
こうして、安価な原材料(綿花)を安定的に確保する必要性が国策として不可欠となり、植民地では住民を綿花栽培に動員する為のあらゆる策を執る様になります。
この国際状況の変化を受けて、サラザールによってモザンビークに派遣された総督が、ビッテンクーと言う人物です。
彼は、1944年の機密会議で、こんな言葉を吐いています。
大国が戦争の心配をしている現状では、労働システムに関する国際協定上制限される如何なる専横も批判も受けない。
つまり、本国の心配は植民地住民達の権利擁護や反発ではなく、自らの植民地政策に対する国際的な批判にあったことが伺えます。

ビッテンクー総督の言う、「専横的な労働システム」とは、土地が綿花栽培に適しているか否かに関わらず、Sipaioや綿花会社のエージェントを用いて、強制的な綿花栽培を現地住民に課すことにありました。
行政ポスト長は、本国経済の要請を受けて、綿花栽培の強制をより確実に行う為、Reguloに女性及び子供を含んだ領内の全住民を集めさせ、Sipaioの監視の下、共同の綿花畑で働かせ、要求通り働かない者は、容赦なく行政ポストに連行され投獄されました。
ところが、綿花栽培は年間150日以上の労働が必要ですし、老若男女関わりなくそれに従事させた為、食糧生産を行う労働力が足りず、飢饉が各地で発生して社会不安が増しました。

この為、植民地政府側もこの政策を多少修正を余儀なくされ、各世帯を定められた面積の綿花畑で栽培に従事させ、その出来高に対価を支払う、所謂、小農ベースの生産形態を導入します。
これにはきめ細かい対応をしなければならない為、1941年にビッテンクー総督に任命された新しい州知事は、綿花会社が現場監督であるcapatazを雇用することを許可しました。
更に、植民地政府は、今までの小屋税を改め、1942年に人頭税の導入を行いました。
これにより、全人口が税を納める事になり、今まで税金から除外されていた女性労働力も課税対象として、彼女たちも綿花栽培に向かわざるを得ない様にしていきました。

この結果、1940年の綿花生産は20,464トンだったのが、1941年には51,007トンと倍増し、本国需要の40%を賄うまでになります。
1942年にはほぼ90%が植民地産綿花で賄える様になり、1933〜45年に掛けての本国の経済成長率はこうした植民地の犠牲の上で、年平均4.4%を越える様に成っていった訳です。

当然、これに対する反動も各地で強まります。
特に、従来、食糧生産に従事していた女性を綿花栽培に追いやり、飢饉を発生させたり、Sipaioや綿花会社のエージェント達による暴力支配は様々な反発を呼ぶ様になりました。

そこで、1944年、行政機構補助者である現地人達の再組織化と義務が法律で定められ、Reguloは農村部に於ける「本国による干渉の実践者」として位置づけると共に、その対価を、集団の構成員から徴収する税金や綿花売却益のマージンで得る様になります
また、Regloの畑では集団の構成員達が交代で働かなくてはなりませんでした。
これに伴い、従来は一部族の長として「伝統的な権威」を構成していたReglo達は、行政請負人となり、地域社会との乖離が始まる様になります。

ただ、Regloと言っても、「一部族の伝統的な首長」と一致せず、抵抗する「伝統的に正統な首長」は排除されていき、植民地権力に迎合する人物が選ばれる事もあったり、逆に部族側が「伝統的な首長」と称して、「奴隷」を送り込み、彼を住民達が意のままに操る様にする抵抗を行った地域もありました。
また、植民地権力側が設定したRegloの序列は、Regloの下にchefe de grupo de povoacao(集落集団長)、その下にchefe de povoacao(集落長)としたのですが、この序列は人口の多さで決定され、地域に於ける定着順序、氏族間の序列を反映したものではありませんでした。
そうして、齟齬が生じた現地ではこの伝統的階層構造と新たな地方行政構造の間で混乱が生じる様になっていきます。
これが、後の植民地解放運動でも重要なファクターになっていく訳です。

一方で、彼等の抵抗の手段としては、何時もの様に「逃散」と言うものがありました。

国境付近に生活する住民は、大挙して隣国の英国保護領に流れていきます。
南アフリカへの合法的移民労働者数は、1939年に8万人だったのが、1941年には10.5万人、1945年には13.5万人と急増しており、南ローデシアのそれも、1940年に6.8万人だったのが、1944年には9.3万人となり、北ローデシアやニアサランドからの移民労働者よりも遙かに占有率が高くなっています。
タンガニーカでは、1942年の時点で、南部サイザルプランテーション労働者の半分近くがモザンビーク出身者となり、1930〜48年のタンガニーカ南部州滞在中のマクア人納税者数は倍増していました。
これ以外に、非合法的に国境を越えた労働者の人数も相当程度いたものと考えられます。
これを主導したのは、植民地権力の補助者となることを拒否した「伝統的権威」であることが多く、それ以外にも家族、個人単位での越境も多く行われました。

また、国境から遠い地域の住民は、実質的な植民地支配が遅れている地域、特にマウア北部や旧Nyassa Company領土と言った北部辺境地域への「逃亡」を行いました。
これは道路や鉄道網の整備と言ったインフラ設備の充実(これも実質的には強制労働で建設されたものだが)により、様々な手段で阻止される様になり、結果として、こうした現地住民の抵抗はマグマの様に溜まっていく様になります。

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