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昨晩は酷い嵐でした。 今朝も細かい雨が降っているし、風はきついしで何処にも出たくなかったのですが、医者と散髪と、パンだけを買いに出て、何故か靴を数足買って帰ってきました。 まぁ、雨の日に出歩くと、靴の中が水浸しになる様な代物を履いていたからと言うのもあったのですが…。 何時解体するか判らない代物だったので、まぁ、生活必需品かな、と。 さて、今週と、多分来週は、アフリカ植民地闘争の話にいよいよなっていくと思われ。 第二次大戦の結果、南アフリカと南ローデシアでは、資本の集積が進み、工業が産業の主体になっていきましたが、モザンビークでは相変わらずの一次産品と労働力、そして、港の利用料を収入の主体としていました。 モザンビークには幸い、天然の良港であるローレンソ・マルケス港とベイラ港があり、これらの所在地は国際的な都市に発展する余地が有りました。 しかし、物流産業などにのみ依存した限りでは都市の発展は望めず、1952年の人口はローレンソ・マルケスで9.3万人、ベイラでは4.3万人ほどにしかなっていません。 この都市の人口が少ないのは、その植民地政策にもありました。 「原住民」に分類される圧倒的多数のアフリカ人は、身分証明書の携帯を義務づけられ、雇用者を明確に出来ない「原住民」は直ちに拘束されて、chibaoと言う強制労働に従事させられることになります。 彼等は、植民地政府の間接統治(実際は綿花会社、部族の名目上の王など)を受ける立場であり、その移動は自由に行えず、circunscricao(行政区)に貼付けられ、conselho(町)に住むことが出来るのは、ごく少数の「同化人」、混血、非アフリカ人(白人やアジア人)くらいでした。 この為、1952年の時点でモザンビークの人口の99%を占めていた「非文明人」は、都市であるローレンソ・マルケスでは人口の60%、ベイラでは72%を占めるに過ぎません。 尤も、この大部分は「同化人」として認定されたアフリカ人で、彼等は行政区に居住している移動の自由のない「非文明人」とは明確に区別された人々でした。 同じ国に住む、同じ民族でも、こうして農家に生まれるか、都市部で生まれるかによって分断されていた訳です。 1951年にサラザールは、「海外州は植民地ではなく、海外州住民は全員がポルトガル市民である」と世界に向けて高らかに宣言しましたが、実際には、白人→非アフリカ人(アジア人など)→混血者→「同化人」→「原住民」と言う序列が出来上がっていたのでした。 当然、教育を受けられる機会のあるアフリカ人は、混血者もしくは「同化人」が殆どで、植民地政府は必要以上の教育機会を付与することを阻んでいました。 1929年の時点で、ensino primarioと言われた初等教育学校は、全土に僅か11校しか存在せず、殆どが南部に集中していました。 同年の初等教育学校のアフリカ人生徒は、合計しても1,184名で、欧州人の1,064名と大差ない状況だったりします。 これが、1938年になると、その生徒数は僅か410名にしかなっていません。 結果としてアフリカ人に対する公教育はその後教会の役割となり、その所為で1942〜43年の生徒数は76名にまで減少しました。 一方で、カソリック教会が運営する入門初等教育校は1940年に296校、1944年には542校と倍加し、登録児童数は1940年に5.2万人、1944年には9.5万人に達しています。 ただ、全人口比から比べると、その割合は僅か2%にしか過ぎませんでした。 このカソリック教会の進出は、一見彼等の奉仕の精神を窺わせるものですが、実際には奥地にもカソリック教会が進出し、信者を獲得すると共に、既存の部族宗教の否定、そして、現地部族集団の弱体化を招き、最終的には「柔靱で模範的な労働者」を生み出す事が目的になっています。 これは実は本国でも行われていた事であり、1940年にサラザール政権とヴァチカンとの間で結ばれた協定に基づき、本国でのカソリック教会の国教化と、植民地に於ける初等教育のカソリック教会への一任によって、初等教育は公教育でなくなり、本国の国民達の教育水準も低く置かれていました。 サラザール体制が長く続いたのは、こうした教育水準の低い国民を生産したからだと言っても過言ではありません。 因みに、中等学校となると、1952年のモザンビークでは、白人であってもその教育機会は充分に与えられているとは言えず、全土に公立中等学校が1校、私立校が5校しかなく、全部がローレンソ・マルケスにしかありませんでした。 こんな狭い門で、アフリカ人が中等教育を受けようとしても無理な話です。 しかし、隣国に行けば教育を受ける機会はありました。 南部の移民労働者(北部はそもそも移動の自由がない)出身で、帰国後富農となった親たちは、子供に就学機会を与える為、親族の出稼ぎ活動で培った情報やネットワークを駆使して南アフリカに行き、其処で高等教育を受けることになります。 1940年代の南アフリカは、未だ明確にアパルトヘイトが確立されておらず、ANCが活発に活動を展開していました。 1943年、ANCメンバーの若手が青年同盟を結成し、武装闘争を選択肢として掲げる様になると、南アフリカで学んでいたモザンビークのアフリカ人も影響を受け、帰国後、彼等は1949年にローレンソ・マルケスでNucleo dos Estudantes Africanos Secundarios de Mozambique(NESAM:モザンビーク・アフリカ人中等学生会)を結成します。 当然、NESAMの活動は植民地当局に目を付けられ、多くのメンバーは秘密政治警察によって尋問と投獄を経験することとなります。 その結果、NESAMは地下に潜り、1964年まで活動を行いました。 このNESAMは、反植民地ネットワークとして、アフリカ人と混血者の知識人ネットワークを構築したことになります。 勿論、このNESAMには後にFRERIMOの書記長となるモンドラーネも加わっていました。 1950年代初頭の当時、未だ反植民地運動は活発ではなく、NESAMについて、植民地当局は、幹部達を懐柔し、転向させることは可能であると考えていました。 そして、彼等に本国の教育を受けさせることで、体制に協力的で有能なアフリカ人達を作り出せると判断した訳です。 これはモザンビークだけでなく、他のポルトガル植民地でも同じでした。 こうして、FRERIMOの初代書記長となるモンドラーネ、副書記となるドス・サントス、後にギニア・ビサウの独立運動を率いるカプラル、アンゴラのネト、アンドラーテと言った面々がリスボンに送り込まれた訳ですが、実際には彼等が其処で出会い、交流を続ける内に、それぞれの出身地の課題が植民地支配からの解放無しでは達成され得ないことに気づくことになった訳で、このリスボン留学は、ポルトガルの植民地支配者側の思惑が皮肉にも外れた事になります。 |
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