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年末、満足に休めなかったので、明日から4連休で憂さを晴らそうとしたら、日本全国大雪ってどんだけ〜〜(汗。 明日は結局、税金のことで市役所行ったり医者行ったりとか、明後日はさ〜何しよう…。 さて、と。 今まで第84師団を中心に足柄地域の配備状況を書いてきた訳ですが、後退配備の持久戦から水際作戦への転換と言うのがありました。 もし、後退配備の持久戦で連合軍を迎えているとすれば、足柄平野に連合軍を誘い込み、東西の丘陵地から砲撃を行い、丘陵陣地に連合軍を引きつけて戦うことになった筈です。 其処を強行突破して、東京方面に向かった場合は、平野北部の松田に配備している対戦車砲部隊や戦車隊により、東京方面への進撃を阻止する…つまり、足柄平野全体が沖縄戦の様な様相を呈していたと考えられます。 では、水際作戦だったらどうなるかと言えば、連合軍の上陸に対し、後退配備よりも前進した重砲陣地から酒匂川の河口に砲撃を浴びせ、上陸した敵に対しては、速射砲や蛸壺陣地からの肉薄攻撃で対応したと考えられます。 また、第84師団の佐久間師団長は、回想で、敵の前進阻止の為に堰堤を構築し、斬込み隊を配置したと述べているので、平地陣地での阻止を考え、更に新兵器「ロタ砲」を平野中央部に配備していた為に、これが強力な対戦車火力網を構成したと考えていたと思われます。 但し、第1総軍の杉山元帥、阿南陸相など軍部上層部は、この作戦で完全に米軍の上陸を阻止出来るとは考えておらず、1回は阻止し得ても、2回目の上陸は無傷の部隊が投入されるであろうから、既に掃討の損害を被っている部隊で阻止は不可能であると悟っていました。 勿論、第53軍の赤柴軍司令官も同様でしたが、此処で倒れても本土には後に続く者があるであろうと考えていました。 実際にこうした戦闘が行われなかったのは幸いでしたが…。 ところで、この地区での兵士の任務は、陣地構築に専念することでした。 兵科、兵種に限らず、全兵士が作業を分担して、総力を挙げて丘陵地域での陣地構築を実施しました。 そして、陣地構築後は、連合軍を迎撃する為の肉攻訓練などの教育訓練に重点が置かれる予定でしたが、途中での作戦方針転換もあって、結局、敗戦まで彼等の任務は陣地構築で終わりました。 陣地構築の仕事の大部分は、トンネル掘りと、坑道を補強する為の木材の伐採と製材が主でした。 「国土築城実施要綱」では各部隊は、自力で陣地を築城することが原則でしたので、部隊の兵士は、伐採班、製材班、築城班に分かれて作業を行っています。 勿論、地域住民の有効活用としての労務動員も自前で地方行政当局と交渉して調達し、セメントなどの工業製品に頼ることなく、現地の材料を活用し、地形を有効に利用した陣地構築が求められました。 こうした築城では、陣地構築に多くの人手が取られて坑道補強の木材の生産が間に合わなかず、結果として進捗が遅れたり、掘削に困難な岩盤が出た場合の措置が人力では限界があること、更に地下での作業により、戦力となるべき兵士達への健康悪化の問題が出たりしています。 本土決戦では、築城だけでなく全ての面で自活が求められました。 食糧も勿論自活が求められています。 一般の兵士の主食は大豆や高粱ですが、第53軍に関しては、副食物が比較的豊かな方でした。師団長命令で宮城県気仙沼市に主計将校を派遣して、鰹節や塩物を多数購入してきています。 これにより、炊爨時に煙が出るのを防いでいました。 軍司令部でも、自活の為に種々工夫していましたが、幸い第53軍は経理部長に人を得ていて、先ず糧秣費を其の儘使わず、福井の人絹、北海道の鰊など輸送が出来なくて滞貨しているものを買い集め、その物で物々交換をすることにより、糧秣予算で直接購入するよりも何倍もの食料を手に入れていました。 また、芝浦の倉庫に太平洋諸島部隊に送られる筈の補給糧秣が輸送出来ずに滞貨していたものを、担当者と話を付けて独占的に手に入れ、これでゴム袋に入った米、味噌、氷砂糖を手に入れました。 他に、経理部長は第53軍内部にいた専門家を集めて、漁撈隊を編成したり、干魚の備蓄、熱海で海水を利用した電気製塩工場の直営、自活農園の計画などに才能を発揮しました。 因みに、この経理部長、1951年には日本でもロシア料理店の草分けとなる渋谷ロゴスキーの経営者になりました。 こうした生活物資を得る為に、伐採、製材、築城の各班だけでなく、農耕隊、漁撈班、炭焼班、製塩班が第84師団にも設けられました。 足柄国民学校には、1945年4月15日から農耕隊が駐屯し、学校に農地の提供を依頼していますし、城内国民学校でも、威張山の報徳道場と農場を第199聯隊に貸与したと言う記録があり、これも農耕隊であると思われます。 これら農耕隊は、これらの農地で馬鈴薯や野菜を栽培していましたし、炭焼班は諏訪原辺りで活動していたようです。 また、漁撈隊は湯河原町の福浦で活動しており、兵士の中には海豚を食べたと言う人もいました。 一方、熱海の製塩工場は余り能率的では無かったようです。 この他に、第200聯隊では、鳥取から牛や豚を連れてきて自活の足しにしていました。 |
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