眠い人の植民地日記

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<<   作成日時 : 2009/02/01 21:01   >>

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いやぁ、今日から2月ですか。
月日の経つのは早いものですねぇ。

1950年代初頭から、徐々にポルトガルの植民地住民達は外部との接触の中で彼等の立場を知り得、独立に向けての胎動が始まっていきます。
それがどの様な形で進んでいくかについては、明後日以降書くとして、今日と明日はポルトガル植民地政府の対応について纏めて書いてみたり。

1940年代半ばに非難され掛けた国際環境も、冷戦という事態に遭遇することで延命が為されます。
米国は、例えばダレス国務長官が書簡で記した様に、「フランスの(植民地)政策もその一つであるが、その他の多くの理由から理論的に理想的な政策を米国が採りうる余地は無く、実際問題としては(共産主義と植民地主義と言う)二つの悪魔の内、よりましな方を選ぶしかないのだ」と言う立場を採りました。

つまり、植民地主義は「よりましな悪魔」であり、これに抑圧されていた人々の解放による要求は、「よりましでない悪魔」の考えとされた共産主義的主張を帯びていたが故に、「ソ連の膨張主義と結びついている」とみなされ、その要求を認めると、「ドミノ的効果」により、「米国の安全保障を危機に陥れる」とされた訳です。
この焦りの背景は、1949年9月にソ連が原爆実験に成功して米国と軍事面で「対等」になった事、10月に中華人民共和国が成立して重要な巨大市場が喪失したこと、1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発した事、1953年にはソ連が「社会主義志向」国家と言うカテゴリーを認め、同盟国数を20に延ばしたこと等が要因でした。

そして、1953年のアイゼンハワー政権誕生後、1950年4月14日に決定していた安全保障会議第68号(「ソ連を世界支配を目論む侵略的軍事的膨張国家」と規定し、全世界的規模で軍事介入をすることで共産主義に対する「巻き返し」を定義した米国の世界戦略)を公表し、着手していきます。
具体的には、米国は全世界に反共軍事同盟網を張り巡らせ、情報機関を利用したそうした「望ましからざる」政権の転覆工作を開始していった訳です。

こうした冷戦の一連の動きの中で、ポルトガルのNATO加盟が実現した訳ですが、実はこの国の国際連合への加盟は1955年だったりします。
1952年にそれまで臨時委員会だった「非自治地域に関する国連情報委員会」が国連の常設機関となり、「非自治地域の経済的、社会的及び教育的状態に関する専門的性質の資料」提出を植民地保有国に義務づける国連憲章第73条e項の適用が開始されました。
これに対応する形で、サラザール政権は、従来Imperio Colonial Portuguesと呼んできた「植民地」の地位を、1951年から「本国と不可分のProvincia Ultramarina「海外州」」と改称し、1953年に憲法を改正し、名目上本国と対等な関係に引上げたと称します。

但し、あくまでもこれは「名目的」な変化で、実質上は本国での植民地の一元管理を強めることになりました。
こうした欺瞞を糊塗するも、これに抵抗する現地住民の異議は、未だ現地住民が組織化されていないので出ようはずもなく、最終的に1955年、東側諸国が国連加盟を果たすのとバーターで、ポルトガルの国連加盟が実現した訳です。

この海外州化に伴い、植民地の本国への従属と植民地内の中央集権化を更に進め、植民地の最高権力者である総督と雖も、本国「海外州」省にこれまで以上に従属する事となり、「海外州」の隅々に至るまで、植民地支配体制が浸透し、内実を伴った植民地統治体制が実現したと言う皮肉な結果となりました。

1950年代と言う時代は、アジア各国では植民地からの独立が起き、植民地での解放闘争が激化した時代でもあります。
彼等は、西側世界でもない東側世界でもない第三極を築く為、第三世界として連携を行う様になっていきます。
この波は間もなくアジアからアフリカに届く様になり、植民地保有国にとっては望ましくない情勢が醸し出される様に成ります。
特に、フランス植民地では、1954年のヴェトナムでの敗北に続き、アルジェリアでの民族解放戦線が結成されたりして、植民地内でのゲリラ戦が活発になっていきました。
こうした状況の中、国連加盟国の数は、1950年代後半に急増することになり、東側諸国を中心に、国連を舞台とする植民地保有各国への追求が盛んになる一方となりました。
1956〜61年に掛けてのポルトガルの外交政策は、その植民地問題を巡るものとして展開されることとなった訳です。

一方で、南部アフリカ地域では、白人入植者を多く抱えていました。
西側勢力にとって、この地域は鉱産資源が豊かな戦略的要地でした。
この地域を共産主義勢力に奪われるのは何としても避けたい事であり、同地の白人政権は「反共防波堤」としての役割を課せられ、白人少数者支配と植民地支配は容認されていくことになります。

しかし、転機は1957年に訪れました。
1957年3月、西アフリカのガーナが英国植民地から独立を果たしたのです。
これは、これまで先行していたパンアフリカニズムに代表されるマクロ・ナショナリズムを、自領域の独立を優先させるミクロ・ナショナリズムが追い越した瞬間でした。
但し、パンアフリカニズムの追求も衰えることなく、1958年4月にアクラで開催された第1回アフリカ独立諸国会議では、非同盟政策の遂行と非従属の立場の推進と共に、アルジェリアで行われている解放闘争の支持、未解放地域の独立推進、人種差別政策批難などが決議されています。
こうした動きは、従来、アフリカに植民地を保有していた西側諸国の弱体化に繋がり、逆に言えば、共産主義ブロックの強化と言う点で脅威に繋がっています。

さて、こうした国際的な動きに対応して、サラザール政権は、植民地の名称変更だけでなく、植民地政策の抜本的な変更を迫られる事となります。
その政策の肝は、学校教育の拡充、保健衛生機関の農村部設置、労働条件の改善でした。
特に、学校教育の拡充については、早急に改善が求められました。
先に見た様に、入門初等教育を受講し登録する、モザンビークに於けるアフリカ人の数は、14.8万人と植民地総督府配下の総人口の僅か2%程度でした。
一方で、「海外州」になった事で、表向き植民地全住民は「ポルトガル人」と呼ばれる様になります。
しかし、これはポルトガル市民権の保有ではなく、1953年の時点で選挙権を有する「ポルトガル市民」はモザンビーク全体で1.6万人強しかいませんでした。

これを糊塗するためにも教育機会の拡充は焦眉の急であり、農村住民に対して初等教育の機会は急速に拡大していき、全住民対象のescola primaria de adaputacao(入門初等学校から改称され、適応初等学校となる)と、白人主体のescola primaria comum(共通初等学校)の2つが設置されていくことになります。
これによる初等教育の在籍生徒数は1957〜58年で40万人、1960〜61年で43万人に上りました。
とは言え、この数でも、モザンビークのアフリカ人全体(650万人)からすれば僅か0.05%にしか過ぎませんでした。

1950年代も終わりに近付くと、モザンビークと国境を接していた英国植民地であるタンガニーカ、ニアサランド、北ローデシアと言った各地の独立が日程に上り始め、ポルトガル本国と植民地政府ではその影響を懸念する声が出始めます。
植民地のアフリカ人達の独立への胎動を抑え付け、植民地支配を堅持する為に、行動監視強化の為の植民地内外に於ける諜報網の整備を行う一方、アフリカ人住民の文化や政治的意識に関する研究を始めました。

尤も、綿花増産体制の時期には植民地農村部の支配確立の為、本国で原住民研究が奨励されていました。
この動きを受けて、1946年にはリスボンにInspeccao Superior dos Negocios Indigenas(原住民問題高等監督局)が設立され、1959年にはこの局は、Gabinete dos Negocios Politicos(政治問題局)に改組されて、植民地に関する情報を在外公館やPIDE、植民地総督府から集めて分析を行っていく機関に発展します。
また、植民地官僚の不足に対応する為、同じく1946年にEscola Superior Colonial(植民地高等学院)が設立されました。
更に、植民地省改め海外州省内には、数々の研究機関が設置され、植民地に関する調査・研究活動が主宰されています。
特にJunta de Investigacoes do Ultramar(海外州調査委員会)附属のCentro de Estudos Politicos e Sociais(社会政治研究所)は、植民地住民の社会・政治構造に関する文化人類学的研究を始め、1961年に植民地高等学院改め海外州高等学院教授のモレイラが海外州省大臣に就任すると、植民地に関わる研究者、教育者、実務者間の関係は益々強くなっていきます。

研究機関に属する研究員達は、自身が植民地住民に対する共感を屡々吐露したりしていますが、一方ではその仕事が植民地解放闘争で、対叛乱戦略に利用されたのも事実でした。

植民地解放闘争を抑えたのは総督府を始めとする植民地官僚だけではありません。
これを弾圧するのに最も重要な役割を果たしていたのは、PIDEであり、実際の戦闘で矢面に立ったのは国軍でした。

PIDEについては、1951年の段階で在モザンビークのPIDE職員は46名。
内17名が原住民補助者で、この時点では事務所はローレンソ・マルケスにしかありませんでした。

この時期、弾圧に実際の手を動かしていたのはPolicia de Seguranca Publicaと呼ばれた公安警察で、彼等は227名を数え、1950年のアフリカ人の逮捕者数は公共秩序を乱した罪で2,761名(うち白人は12名…植民地は本国で弾圧に遭った人々が逃避する先として屡々選ばれ、この地で反政府活動をするケースも多かった)、原住民労働規定違反で10,769名に達していました。
但し、この逮捕者の大部分は都市に集中しており、農村部で地方行政機構が請け負っていた警察業務の報告は本部に為されていない可能性が高いとされています。
農村部で警察活動をしていたのは公安警察ではなく、官憲であるSipaioで、彼等は農村部の各地区に15〜30名(各行政ポストに1〜2名)配置され、全土で1,833名を数えていました。

てな訳で、明日はPIDEと国軍について書いてみよう。

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