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今日は何となく寒気がするので、おうちで大人しくディスクの整理…。 で、整理している最中、暇なので読書。 巷で散々叩かれている、『世界の最悪兵器大全』読了。 まぁ、何と言うか、作家さんの主観がモロに出ている本でした。 しか〜し、何故カビナンターを出さない!! 納得いか〜〜〜ん(ぉぃ。 銃剣パイクやパンジャンドラムはきちんと取り上げているのに…。 ついでに、日本語訳するのであれば、原著の九四式拳銃の写真くらい訂正しようよ。 南部式拳銃が何で出て来るのか意味不明。 巷で叩かれる意味が何となく判った。 本の記述自体は…、まぁ英国人の「エスプリ」を効かせた文章なんてそんなもんと思えばよろし…。 で、次いで、『世界の最悪航空機大全』に取りかかっているが、こちらの方が未だまともに思える。 さて、しつこくモザンビーク。 初代書記長であるモンドラーネの暗殺を乗り越え、北部のマコンデ人支配層を排除した形となったFRERIMOでは、ドス・サントス、マシェル、シマンゴのトロイカ体制で事態の沈静化を図ろうとします。 しかし、モンドラーネが未だ穏健派であったのに対し、ドス・サントスは共産主義者、マシェルは革命志向で、彼等は武装闘争下で重要な地位を占めつつあり、若いゲリラ兵達は、彼等を支持し、「主流派」を結成するに至ります。 しかも、彼等は南部出身です。 そうなると、足下が危うくなって来たのが、中部出身者を基盤とし、武装闘争反対派の学生を支持基盤とするシマンゴです。 シマンゴは、現在のFRERIMOがより過激に、そして南部出身者が進出してくる事に不満を示し、1969年11月、FRERIMOの攪乱と自分の主張を内外に示す為の文章、「FRERIMOに於ける鬱状況」を発表し、遂にはFRERIMOを除名される事になります。 又、この時、シマンゴ派の幹部11名も、タンザニア警察に拘束され、牢屋に放り込まれています。 この出来事は多分にタンザニア国内情勢も絡んでいました。 独立前のタンガニーカからずっとTANU事務局長を務め、1965年に外相兼国防長官、その後OAU解放委員会委員長となったカンボーナと言う人物が居ます。 カンボーナは、当初から対FRERIMOの交渉窓口でしたが、比較的MANUやUDENAMOに近い立場を採っていました。 しかし、社会主義路線に転換したニエレレに不満を持ち、反ニエレレ姿勢を強め、遂に1967年7月に英国に「逃亡」してしまいます。 反ニエレレの立場を強めてからは、ニエレレが支持するFRERIMO指導部に敵愾心を抱くと共に、PIDEにも近付いていきました。 PIDE側は当初、カンボーナを「毛沢東主義者」と呼んで不信感を抱いていましたが、カンボーナが英国の新聞に、ニエレレを「独裁者」を非難する記事を投稿した事を確認すると、秘密工作員ジャルディンを英国に派遣し、「ニエレレ政権転覆計画」を持ちかけさせています。 つまり、カンボーナがニエレレを倒して政権を握れば、聖域であるタンザニアはFRERIMOにとって聖域では無くなり、北部に作られた解放区は自然と立ち枯れる、そうなれば、後はザンビア国境地帯に彼等を追い詰めていけば良いと言う事になります。 こうしたタンザニア側の事情もあって、ニエレレは、カンボーナに近いMANUやUDENAMO関係の人物の粛清をFRERIMOに求めたとも考えられます。 1969年10月、シマンゴはFRERIMOから党員資格の停止を宣言され、1970年5月にはトロイカ体制から、書記長にマシェル、副書記長にドス・サントスを指名して、FRERIMOは、名実共に革命派(FRERIMO軍指導部と共産主義者)の主導で構成され、革命志向に合意しない者はタンザニア警察に拘束されるか、国外に逃れて分派を形成する事になり、この分派が独立後の内戦の一要因となっていきます。 こうして、1970年には足かけ4年に亘って繰り広げられた内部闘争が終熄しました。 これにより組織固めが図られ、政治が重視され、革命路線の徹底が図られる様になります。 植民地権力など多くの人々にとって、強化されたFRERIMOの出現は、意外な出来事でした。 特に驚いたのが、植民地権力側です。 内部闘争は、そもそもPIDEの関与もあって、植民地権力側がFRERIMOの組織を弱体化させる為に行ったのですが、勝利したのは植民地権力側が期待した、穏健派ではなくより手強い革命派であり、1970年以降の戦闘はより困難なものとなっていきます。 とは言え、このFRERIMOの混乱に乗じて植民地権力側は大規模な軍事作戦を展開していました。 特にニアサ郡内のFRERIMO軍事基地の掃討に成功します。 その結果、多くのゲリラ兵や支配下住民が再び植民地権力側に投降する事になります。 更に、カヴァンダメ一派の離脱はカーボ・デルガード郡のマコンデ人居住区に混乱を引き起こしており、FRERIMOは退潮を余儀なくされます。 これに換えて、FRERIMOが新たに戦力を展開したのがテテ郡です。 テテ郡には、南アフリカに植民地権力側が安価な電力を供給する為に、カオラ・バッサに巨大なダムを建設中でした。 ポルトガル政府は、南アフリカ政府を始めとする諸外国をモザンビークの経済開発に関与させる事で、自らの支援者を確保しようとし、それに応えたのが南アフリカと西側諸国でした。 一方、FRERIMOは、このダム建設現場を攻撃する事で、世界の耳目をFRERIMOに集めさせ、植民地の悲惨な状況と自分達の闘争を世界に知らせる事が出来ると考えました。 テテ郡での武装闘争開始は、1968年3月と遅れますが、このテテ郡で活動を開始できたのは、1964年10月にザンビアが独立した事が大きく関わってきます。 つまり、タンザニアの国境地帯500kmに加えてザンビアの国境地帯400kmがFRERIMOの新たな聖域になった訳です。 1968年のFRERIMOの攻撃総数は少なくともポルトガル国軍の統計では1,087回を数え、内訳はカーボ・デルガード郡が44%、ニアサ郡39%、テテ郡15%、その他2%で、この年初めて、カーボ・デルガード郡の攻撃がニアサ郡を越えています。 ただ、全体的にこの時期の軍事活動は低調で、その多くは地雷の設置によるものでした。 この時期のポルトガル植民地権力側の防衛戦略は、初期の混乱を乗り越え、成熟したものになっていきます。 |
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「2ちゃんのスレッドのような本でした」 |
消印所沢 URL 2009/02/16 22:24 |
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