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今日の魚座の占いは12星座中12位。 「遣っていた事が引っ繰り返される事もあるでしょう」と書いてあったのですが、正にやっていた事が引っ繰り返される事態が勃発しそうです。 全く、うちの上つ方の無定見さは、某国内閣にも匹敵しそうな勢いです。 明日はヤケ酒や〜。 さて、1970年以来、モザンビークの戦闘は激化していました。 ポルトガル国軍と特別部隊GE、地元民兵、PIDE/DGS、これに南ローデシア軍、南アフリカ軍などが入り乱れ、戦闘を行ってきた訳です。 こうした正規軍だけでなく、ポルトガル人入植者達も、自分達の立場に不安を覚え、且つ、国軍の不甲斐なさに怒りを募らせました。 1973年8月、ベイラ地区の住民146名は、FRERIMOの攻撃により移住を余儀なくされ、不満が爆発します。 彼等は、避難先のベイラ市でデモ行進を行い、国軍に抗議する一方、「自分達の身は自分達で守る」として、自警団や傭兵団の結成を開始しました。 これに呼応するかの様に、PIDE/DGSは、地元のアフリカ人を使った民兵組織Flecha(弓矢)を結成し、彼等を中部各地に送り込む事にします。 この組織はそもそもは、情報収集の為に作られたアフリカ人の特別部隊であり、PIDEによる軍事訓練と諜報活動の訓練を受けて、軍事攻撃にも使用される様になっていました。 特に、FRERIMOの侵入経路であった中部のシモイオ高原に重点的に配備され、FRERIMOの活動を難しくする事に成功しています。 Flechaは国軍よりもタフであり、且つ精強でもあった事から、地元の白人入植者達に支持され、白人入植者はFlechaへの財政支援を行うまでになります。 特に例のジャルディンは、GEだけでなくFlecha結成にも積極的に関与していますが、モザンビークの現地住民達から見れば、彼等は拷問や処刑を多用した為、恐れられる存在となっていきました。 更にFlechaの存在は、そもそもの軍の領分を侵すものとして国軍と、PIDEとの摩擦を激化させる事になりました。 一方、ジャルディン始め、モザンビークに住む白人有力者達は、此の儘行けばFRERIMOが勝利してしまう事を恐れていました。 この為、ポルトガルに対するモザンビークの「一方的独立」を行う準備を開始していました。 この「一方的独立」は平和裡に国土をFRERIMOに引き渡すのではなく、南ローデシア型の白人政権を目指したものです。 アリアーガ将軍の更迭は、表向き、ウィリアム村虐殺事件の責任を取らされた事になっていますが、実は、この動きに関与していた事が本国政府に察知されたからではないかと言われています。 これで軌道修正したモザンビークの白人達は、次いでアフリカ人「穏健派」と結びつこうとします。 但し、自らの植民地統治では、アフリカ人の政治家を育てておらず、育てていてもそれは大半がFRERIMOに属していました。 FRERIMOは完全に考慮外であり、白羽の矢を立てたのは、FRERIMOから除名された政治家、分派の運動指導者、植民地権力側に投降、或いは捕縛された元FRERIMOゲリラ達でした。 この計画は、ポルトガルの国家体制を根本的に覆すものであり、絶対に本国に知られてはならない類のものでした。 従って、ポルトガル人でも本国から来たばかりの人々には内密にされ、ジャルディン達は、「反フレリモ」戦略と称して、PIDE/DGSやポルトガル国軍高官、政治家、南ローデシアと南アフリカの白人政権、マラウィのバンダ大統領に近付いていきます。 更に彼等が穏健派勢力を担いで、ポルトガルから一方的独立を果たした場合、FRERIMOに対抗する基幹兵力として、GEやFlechaを育てて行った訳です。 ところで、海外領土での長期間の戦争は、既にポルトガル本国を相当疲弊させていました。 本国市民の中にも疑問を持つ者が出て来て、また、海外の動きから影響を受ける者も出だしました。 特に、この戦争に駆り出されていた青年層は、植民地の現実を目の当たりにして、自分達の戦う意味を考え、何の利益も齎さない本国政権を維持する事に懐疑的になっていきます。 特に、中堅将校の地位にある士官にこうした動きが顕著となり、彼等は社会党や共産党に呼応して、ポルトガル国軍内での活動を密かに拡大させていきます。 1973年6月、カエターノ政権はアフリカに従軍している大卒予備役兵に1年間の士官学校に於ける集中講義により、現役将校に昇進させる政令を出します。 普通、士官学校での講義は4年かかるので、促成栽培で将校を量産しようとした訳です。 これに憤ったのが、現役将校達でした。 8月18日、ギニア・ビサウの国軍将校クラブに20数名の大尉が集まって、政府の決定が如何に現在大尉の地位にある者に影響を与えるのかを論じ合って、25日、闘争委員会が結成されました。 9月5日、オテロ大尉は、6月の政令を撤廃する抗議文を投函しました。 この動きは、各植民地に広がり、アンゴラで94名、モザンビークで106名、リスボンで190名が同じ抗議文をカエターノ政権に送り付けたのです。 また、同じ6月には1961年から徴兵されてアフリカで戦った大学卒予備役兵の会議である海外戦闘者会議が政府によって主催され、唯一不可分のポルトガルの擁護を決議します。 目の前で、既に勝ち目のない戦闘を行っていた国軍の職業軍人達は、職業軍人の誇りを刺激され、直ちに行動を開始しました。 本国ではエアネス少佐、ヴァスコ・ローレンソ大尉が、ギニアではオテロ大尉、モザンビークではマリオ・トメ少佐が中心となり、アンゴラでも同様の組織が結成されました。 特にギニアでの動きが鍵を握っていました。 この地で8月まで総督を務めたスピノラ将軍が、この地に有能なチームを造り上げていたからです。 このスピノラ将軍は、サラザールの側近を務めた父親を持ち、1961〜64年までアンゴラで大佐として騎兵大隊を率い、帰国後大将となり、共和国護衛隊第2司令官に就任していました。 1968年にギニアに総督として赴任しますが、午前中はヘリコプターで現地住民の部落を訪れ、首長と接触を深め、予備役兵の教練を自ら実施、午後は軍病院を訪れて、戦傷者の名前や症状を覚え、彼等一人一人に対する忠告を医師や看護婦に与えたと言う、それまでの総督とは全く違った総督でした。 1972年、彼は老いぼれたアメリコ・トマス大統領の後継者として、選挙管理委員会に支持され、カエターノ首相もこれを賛成します。 しかし、極右の反対に遭い、一旦、ギニアに退却しました。 1973年6月、スピノラは「アフリカ戦線に於ける最初の英雄」として、リスボンに凱旋しますが、その処遇は遅々として決まりませんでした。 余りに国民的人気が高すぎて、反って政権の疑念を招いた為です。 さて、混乱状態の1973年10月12日、政府は問題の政令を無効にする事を決め、国防省の人事を一新しました。 これによって、中堅将校の運動は終息に向かうかに見えたのですが、11月24日、彼等将校団の会合が開かれ、初めて中佐以上の将校としてルイス・バンゾーラ中佐も参加します。 この時の議論は如何に軍の威信を取り戻すかと言うもので、議論白熱し、結論は出ませんでした。 12月1日に再度集まった彼等は、3つの戦術を討議しました。 1つは、クーデターによる軍事委員会の設置、2つ目は軍の監視の下に行う自由選挙、3つ目が政府に圧力を掛ける事に拠る威信の回復で、此処に集まった86名の将校達は、3つ目の戦術を採択し、その為の圧力団体として、国軍運動(MFA)を結成する事になりました。 これには陸海空三軍を包括し、統括委員会には陸軍将校を中心に19人の幹部を選出しました。 また、リーダーの選出も行われ、1位がコスタ・ゴメス参謀総長、2位がスピノラ将軍、3位が降下部隊のカウルツァ将軍でした。 これに対抗する為、政府は同じ月に軍人の給与を画期的に引上げる予算案を通過させました。 中堅、幹部将校と無能な政府の対立が続き、この年は緊張を孕みながら何とか平穏に終わりました。 しかし、翌年、ポルトガル本国は劇的な展開を迎える事になります。 |
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