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おんやぁ? ケータイから投稿したブログが反映されていないのは何故? てな訳で、慌てて作成。 1973年、内外に批判が起きていたポルトガルでは、MFAのメンバーが公然と政府批判を繰り広げていました。 そして、彼等の代表となる人物を選びましたが、1位はコスタ・ゴメス参謀総長、2位はスピノラ参謀次長、3位は空挺部隊のカウルツァ将軍でした。 1974年1月にモザンビークで発生した白人農園主夫人殺人事件に端を発した暴動では、更に軍の威信が低下し、モザンビークのMFAメンバー達は、同地を訪れたコスタ・ゴメス参謀総長に体制批判をぶちまけます。 コスタ・ゴメス参謀総長は、頭を垂れて体制批判を聞きますが、抗議文はカエターノに送る様求めました。 こうした中で、本国にいたMFAの中心メンバーであるヴァスコ・ローレンソ少佐とオテロ大尉は、スピノラ参謀次長に解決を委ねました。 スピノラは彼等の言葉を突っぱねる様な事はせず、暖かく迎え入れました。 この事から、スピノラ将軍は、MFAを公然とは支持しないまでも、支持者である事が彼等に判りました。 しかし、スピノラ将軍は同時に、非常に政治的野心が強く、大統領就任の為に、MFAを踏み台にする下心を持っていた事も彼等はうかがい知れました。 モザンビークの事件に端を発したMFAの政治化は、保守的な将校を憂慮させ、1月末に彼等の間を回った差出人不明の回状には、MFAの中立化と脱政治化を求めています。 しかし、MFAを利用しようとするスピノラ将軍は、いよいよ政治的な言動を決定的にし、2月22日、スピノラ将軍は彼の考えを著した『ポルトガルとその将来』を出版しました。 この本では、政府を決定的に批判し、植民地政策は軍事的解決は覚束なく、政治的解決が必要であると主張しました。 当然、本は飛ぶ様に売れ、ベストセラーとなります。 MFAでもスピノラ将軍の著作は、特に若手将校に熱狂的に支持されましたが、幹部達は、スピノラを警戒し、MFAとは一定の距離を置くべきだと考えていました。 この対立は、後にスピノラが政権を執った後に爆発することになります。 3月6日、カエターノ首相は、議会で、あくまで植民地を擁護すると述べると共に、自著の『海外に於けるポルトガル存在の理由』をスピノラの著書に対比させ、暗にスピノラ批判を行っています。 ただ、カエターノ首相の失策は、こうした反政府的言辞を弄していたにも拘わらず、スピノラの著書を発売禁止にしなかった事でした。 カエターノはスピノラを懐柔してMFAを解散させようと図りますが、策士策に溺れ、カエターノの無能振りが反って明らかになる事になってしまいます。 3月5日、社会党の知識人でもあるメロ・アントゥネス少佐は、約200名の将校が集まるカスカイスでの集会で、植民地戦争の終結に伴う政治経済改革の必要性に言及したもので、空軍将校が文面が過激すぎると批判しましたが、結果的に110名が署名しました。 3月8日、カスカイスの集会を知った陸軍大臣は、ヴァスコ・ローレンソなど4人の主要メンバーをアゾレス島やマデイラ島に左遷する事にしました。 3月14日、陸海空三軍の将官は、国会で政府の政策を支持する事を誓約しましたが、コスタ・ゴメス参謀総長とスピノラ参謀次長はこれを拒み、遂に解任されます。 3月16日未明、リスボンの北100kmに駐屯するカルダス・ダ・ライニャ第5駐屯部隊が決起し、リスボンに向かいますが、彼等は国家防衛警察とポルトガル軍団によって阻止され、約200名の将校が逮捕されました。 軍と政府の対立は決定的になっていった訳です。 こうした中、MFAの中心メンバーであるオテロはクーデター計画を練っていました。 先ずは、マスメディアの掌握。 これにより、一般大衆を味方に付けて自然発生的なMFA支持の流れを作ろうと言う訳です。 体制側の国営放送をストップし、ポルトガル・クラブ放送を通じて声明文を流すには、予備士官であった同放送局の局員が協力を申し出ました。 また、態度を明確にしていない降下部隊と海軍海兵隊の中立の約束を取り付け、更にラジオ・電話・無線についても協力を取り付ける事が出来ました。 大統領、首相、植民地総督を辞任させた後には、政治犯を釈放し、検閲を廃止するなどの措置を行いますが、政府の顔は、スピノラが国家救済委員会を設置し、その総司令官になる事となります。 本国のMFAメンバーはこうしてクーデター計画を練っていきますが、海外のMFAメンバーは情報不足の為、その準備が最終段階である事を知らず、又、MFAの高官の間でも、軍隊を軍の演習場に集結させ、其処から大統領辞任と国会解散を迫るべきだとの考えを示す者も居て必ずしも一枚岩ではありません。 オテロは、こう言って反論します。 「政府はたじろぐ軍人を味方に付け、NATOやフランスに援軍を要請するであろう。政府が電話・電気・瓦斯・水道をストップする事もあり得る。 寧ろMFAは、一気に街頭に軍を繰り出して力を誇示し、24時間以内に決着を付けるべきだ」 4月24日、革命の前日に、オテロは妻にこう言い残して家を出ました。 蹶起の時間は明朝3時。妻が若し読まれなければ?と聞いたら、彼はこう答えました。 次のニュースを待て。妻は心配そうに更にこう聞きます。 「それで貴方は?」 その答えは、「多分長期の豚箱入りだ」というものでした。 翌朝4時26分、ポルトガル・クラブ放送はMFA最初の声明文を読み上げました。 「こちらはMFA司令部。市民の皆さんは家から出ないで平静を保って下さい。流血を成る可く避けるべく、皆さんの協力をお願いします。」 4時45分、第2のコミュニケが読まれました。 「軍隊、警察の者に告ぐ。直ちに彼等は持ち場に戻り、MFAの命令を待て。部下をMFAの軍人と戦わせる指揮官は、厳しく罰せられるであろう」 11時45分、第3のコミュニケが読まれます。 「こちらはMFA司令部。長期間に亘って国民を弾圧してきた体制を打倒する目的で蹶起した我々は、ポルトガル全土を制圧した。間もなく解放の時が来る。」 正午過ぎ、女性の声で次のコミュニケが読まれました。 「こちらはMFA司令部。現在起こりつつある歴史的事件の展開についてお知らせします。 軍の報告に依れば、MFAは次の場所を掌握しました。 ポルトガル軍団司令部、国営ラジオ・テレビ局、ポルトガル銀行、国軍総司令部、国防省、ポルテラ空港、軍事基地…」 そして、この放送が流れた頃、スピノラに全件を委ねられた観光情報省の若手官僚2名が共和国警備隊の本部にいたカエターノに辞任を迫っていました。 カエターノは、「政権を巷の無法者に渡す訳にはゆかない。スピノラがMFAを掌握しているのなら、スピノラに渡すのは構わない」と言い、伝言を側近が書き留めて、スピノラに渡す事になります。 スピノラはそれを突き返し、「私は彼自身が書いたものでなければ受け取らぬ!」と言い放ちました。 その時、カエターノ首相からスピノラに電話がかかり、降伏の意志を伝えます。 既に国民が共和国警備隊の前に押し寄せ、装甲車が広場を埋めていました。 しかし、カエターノの降伏条件はスピノラへの降伏であって、MFAの降伏ではありません。 スピノラはMFAの大佐以上に連絡を取ろうとしましたが、残念ながら彼等は彼方此方飛び回っており、連絡が付きませんでした。 一方、MFAは、護衛隊を包囲していた部隊のサルゲイロ・マイア隊長をカエターノ首相への降伏勧告使節として派遣しましたが、カエターノはスピノラに政権を譲ると断固として聞きません。 そうこうしている内に、午後6時、スピノラが共和国警備隊本部に到着し、正式に政権を委譲されました。 トマス大統領、カエターノ首相を始めとする旧政府要人は、全て軍用機でマデイラ等に移されました。 クーデターはほぼ無血で終結しました。 しかし、スピノラは大統領の地位を得たつもりになった訳ですが、MFAのメンバーはそう考えてはいませんでした。 そして、今度はMFAとスピノラの対立に発展していきます。 |
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消印所沢 URL 2009/02/19 22:53 |
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