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今日は一向大人しく、旗指物関係の本を一冊読み終えて、のんびりと寝ていました。 来週から仕切り直しの怒濤の日々ですし、ちょっとくらいゆっくりしても罰は当らないのではないか、と…。 さて、昨日の続き。 浦賀港内警備をしていた浦賀奉行所以外の4大名家はどんな装備だったか。 川越松平家は、相模国に浜附の分領を有しており、寛政令と共に江戸湾海防に関わることになります。 1842年以後は、相州警備を一手に引受けることになり、川越松平家では大津、三崎、鴨居に陣屋を建設して藩兵を常駐させると共に、観音崎、旗山、十国、安房崎に台場を、八王子山に遠見番所を置いて外国船の警戒に当ることになりました。 とは言え、この警備は相当な負担になって(それでなくとも、川越松平家は転封に次ぐ転封で財政が苦しかった)、1847年には彦根井伊家と警備区域を2分して川越松平家は三浦半島の東南部に縮小され、安房崎台場と八王子山遠見番所を井伊家に引渡しています。 1853年時点で、旗山、十国、猿島、鳶巣、鳥ヶ崎、亀ヶ崎の各台場を傘下に収めていました。 旗山台場と十国台場は1843年3月着工、7月に竣工したもので、前者は水面高さ1丈程度、140〜150坪程度の広さで竣工時は貫目以上5梃程度でしたが、1846年には10貫目ボムカノン1梃、2貫目筒3梃、1貫目筒2梃、500目筒3梃に強化されました。 後者は旗山の山続きの地先の鼻を100坪ほど切り開いた場所にあり、1貫目筒3梃、2貫目筒2梃を備えていましたが、1846年には1貫目筒2梃、500目筒3梃となり、1850年になると1貫目玉筒1梃、800目玉筒1梃、500目玉筒3梃と年々火力が減少しています。 猿島台場は1847年8月から11月にかけて建設された大輪戸、亥の崎、卯の崎の3つの砲台から成る台場で、備砲は、大輪戸に3貫目玉2梃、500目玉1梃、300目玉1梃、亥の崎に3貫目玉1梃、1貫目玉1梃、300目玉4梃、卯の崎に500目玉2梃、1貫目玉1梃の合計13梃が配備されていました。 更に1850年12月、幕府から観音崎台場を鳶巣に移転し、鳥ヶ崎と亀ヶ崎へ台場の新設が下令されます。 とは言え、財政が傾いている川越松平家だけにこれらの台場の建設と装備については、幕府が行い、それを川越松平家に下賜する形式を採っています。 観音崎台場を移転したのは、この台場が水際から20間ほどで射程に難があったことから、その下方である鳶巣崎に移したものです。 この時、川越松平家はこれらの台場を洋式砲台とする様、幕府に要請しましたが、台場の工事を地元に請負わせた為に洋式築城法に対応出来ず、結局従来の形式での砲台となっています。 これらの砲台には、3貫目筒1梃、2貫目筒4丁、1貫目筒5梃を幕府から貸与され、配備していました。 鳶巣台場は7梃据となっており、観音崎の5梃に幕府の2梃を加えたものと考えられていますが、1853年5月には幕府から洋式火砲の貸与を改めて受けており、1854年6月に鳶巣台場を肥後細川家に引き渡した際には、80ポンド、60ポンド、24ポンドカノン砲を各1門、18ポンド砲2門、15ドイム臼砲1門、12ドイム臼砲2門が配備されていました。 鳥ヶ崎台場へは当初5梃据となっており、1853年5月には洋式砲が加えられて、1854年6月には洋式砲1門と和筒5門となっていました。 亀ヶ崎台場は、3梃据で、2貫目筒1梃、1貫目筒1梃を据え付けたものでした。 ところで、1847年2月15日に川越松平家と共に相州警備に加わったのが、先述の通り彦根井伊家です。 井伊家では2,000名の藩兵を相州に派遣し、上宮田に本陣を置き、久里浜から腰越の三浦半島西南部沿岸警備の任務に就きました。 この時、川越松平家から安房崎台場、八王子山遠見番所、浦賀奉行所からは千代ヶ崎台場を引継ぎ、1848年迄に千駄崎、剣崎、荒崎の3台場、1855年迄に大浦山、箒山の2台場を建築していました。 この内安房崎台場は、元々会津松平家が城ヶ崎の東端に建設したもので、当初は10貫目狼煙御筒1梃、3貫目筒1梃、1貫目筒1梃でしたが、1850年になると、高島流ハンドモルチール3貫目筒1梃、新稲富流1貫目玉筒1梃、荻野流1貫目カノン筒1梃となり、八王子山遠見番所も高島流ハンドモルチール3貫目筒1梃、柴田流400目筒1梃、新稲富流1貫目筒1梃となっています。 千駄崎台場は、1847年3月19日に幕府が新設を決定し、11月16日に竣工すると同時に彦根井伊家に引き渡されたもので、当初の備砲は10貫目狼煙筒1梃、7貫目筒1梃、13貫700目筒1梃、3貫目筒3梃、2貫目筒2梃、1貫目筒3梃でしたが、1850年には高島流モルチール13貫700目筒1梃、稲富一夢流3貫目玉筒1梃、藤岡流2貫目筒1梃、24ポンドカノン砲1梃、藤岡流100目玉筒1梃、荻野流3貫目筒1梃、柴田流3貫目玉筒1梃、柴田流1貫目玉筒1梃、新稲富流2貫目玉筒1梃、荻野流1貫目玉筒2梃、10貫目狼煙筒1梃に強化されています。 剣崎、荒崎の両台場についても有力火砲が配備されており、剣崎台場には高島流モルチール36貫目筒1梃、藤岡流1貫目玉筒4梃、荒崎台場には太田流300目玉筒1梃、荻野流400目玉筒1梃、藤岡流1貫目玉筒1梃があり、ペリーも相模岬の砲台については警戒を要していました。 大浦山台場は湾口守備の為の小規模台場で、箒山台場も比較的小規模なものでした。 大浦山台場の備砲は高島流ホウイッスル13貫700目筒1梃、太田流1貫目玉筒1梃、太田流800目玉筒1梃、箒山台場の備砲は高島流ホウイッスル6貫目筒1梃、武衛流1貫500目玉筒1梃、藤岡流1貫目玉筒1梃でした。 1852年5月2日には、浦賀奉行の職制が港内警備に集約された為、西浦賀一帯の警備は全て彦根井伊家に掛かってくることになり、千代ヶ崎台場が井伊家の下に編入されました。 この時点での台場の備砲は、ホウイッスル13貫700目筒1梃、カルロンナーテ7貫500目筒1梃、モルチール13貫700目筒1梃、ホウイッスル6貫500目筒1梃、狼煙5貫目筒1梃、2貫目筒1梃、1貫目筒6梃、南蛮1貫500目筒1梃、800目筒1梃、500目筒1梃となっています。 なお、彦根井伊家の台場は、家内で武衛流砲術家として知られていた河上吉太郎と肥田久五郎でしたが、両名とも和式の砲術家だった為、洋式砲台は遂に建築されず仕舞いでした。 この他、予備として、秋谷村と小坪村に300目玉筒2梃、200目玉筒1梃を保管し、有事の際には臨時の台場を構築する予定でした。 てな訳で、明日は、房総の海防について。 |
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