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今日は何をする訳でも無く、ボケ〜っと過ごしました。 精々がATOK2011を入れたくらい。 でも、ATOK2010に比べると、変換効率が心なしか上がった様な気がする。 前のものより良くなった感じで、それなりに使える様になりましたね。 久々に、以前の軽快感を取り戻した様に思えます。 最近のATOKは迷走気味というか、どうも周辺機能だけに注力していた印象がありましたが、久々に元のエンジンに手を加えたのでしょうか。 或いは、Googleなどのタダで使える日本語入力が増えてきたから、その対抗もしなければならないので、本気に火が付いたのかな。 矢張り、ライバル製品と言うのは必要ですね。 さて、今日から再び血液の話に戻し…。 連合国では、米国を中心に血液の代替品が多く生まれました。 それが、血漿であり、乾燥血漿であり、アルブミンでした。 ただ、これらは原料が人の血液であることから、それが幾ら有っても足りない状態です。 確かに、献血運動は盛り上がって、市民からの血液提供は引きも切らない状態でしたが、それでも、戦場では瞬く間に使い尽され、そのうちこの市民からの提供でも足りなくなることが予想されていました。 また、今は献血運動が盛り上がっているから良いけれども、そのうち、戦争が長引いて人々がそれに飽きはじめると、熱気が下がるのもあっという間という問題もありました。 そこで、人の血液に代るものを探す必要に迫られました。 こうした考えが研究所全体に行き渡り、参加している大学や企業から提案が相次ぎました。 何しろ、その要求量は膨大であり、戦争が続く限りは、儲けを保障してくれる分野でもあったからです。 ノックスゼラチン社は血液と同じ粘度で抗ショック作用を持つゼラチンの提供を自発的に申し入れ、カリフォルニア果実栽培協同組合は、柑橘類の果皮の内側の白い部分から取れる液状炭水化物のペクチンを提供しました。 しかし、これらは、肝臓や腎臓に蓄積する事無しに、血管壁内に長く留まって血圧を維持する要求を満たしませんでした。 コーンが注目したのは、牛の血漿でした。 これは理想的な血液代用物に思われ、化学的に見ても牛の血漿は人の血漿に近く、原料は屠殺場から幾らでも入手出来ます。 その上、分画処理をすることで人のアルブミンと変わらないアルブミンが取り出せました。 ボストンとミネアポリスでウシ・アルブミンの臨床試験が開始され、見込みのある結果が出ました。 1941年4月には、ハーヴァード大学のチャールズ・ジェーンウェイ博士が、30名以上の患者に24グラムのウシ・アルブミンを輸注した所、1名に僅かな副作用が出ただけだと言う報告をしています。 その後、1例に容器の汚染による悪寒が報告されたのを除いて、目立った副作用が全くなかったと言う実験結果を受け、臨床試験を拡大して、3,000名近くの受刑者や医学生のボランティアに、少量の皮下注射を行いましたが、有害なアレルギー反応が見られなかったことから、シカゴのアーマー社がコーンの指導の下でウシ・アルブミンを大量生産して軍用生産に備え、更なる臨床試験の為のテストサンプルを製造しました。 こうしてウシ・アルブミンは極めて有力な人血代替品として、将来を嘱望されましたが、1942年7月に、62歳の男性が輸注の10日後に、発熱、貧血、皮膚の変色、蚯蚓脹れを起こして、暗雲が漂います。 コーンはその反応を起こした原因をあれこれ考えると、遅延型免疫反応が出ない様に細心の注意を払って、処理過程に修正を加え、当初より純粋で20倍以上安定なアルブミンを作ろうとしました。 ところが、そんな修正を加えた頃、研究メンバーがマサチューセッツ州のノーフォーク刑務所で、刑期の軽減を交換条件に受刑者のボランティアを募って実験を行っていた所、輸注を受けた66名の内、21名に同じような遅延反応が出て、筋肉痛、貧血、蚯蚓脹れを起こしました。 その内の1名は、極めて重度の反応が出て、輸注の19日後に発熱、腰痛が出て、その8日後になると目覚めた後急死してしまいます。 死後解剖の結果、心肥大による心臓発作が原因での死亡が確認されます。 心肥大と言うのは、免疫反応の徴候です。 10月19日、この実験の検討会議が開かれ、コーンはプロジェクトマネージャーとして、全ての責任を取って辞任すると申し出ましたが、同僚達はこれに同意せず、それどころか、集まった者達は、計画を進めることを主張しました。 因みに、海軍の責任者であるスティーブンソン大佐も、受刑者の犠牲は、「医学の歴史の優れて英雄的な一例」であると記録に残しています。 会議のメンバー達は、研究続行の為に解決策の実行を採決しましたが、コーンはウシ・アルブミンをボランティアに用いる研究を全て中断する決断を下しました。 こうして、ウシ・アルブミンの臨床実験は中止されたのです。 そんなことを行っている間にも、血液処理の機械は休み無く働き続けました。 7社のプラントからアルブミンが生産され、9社で乾燥血漿が生産されました。 そして、赤十字はそれらのプラントに何百万パイントの血液を供給し続けました。 一方、コーンの研究所では、それまで廃棄されていた分画から、新たな産物を作り出しました。 その1つが免疫物質のガンマグロブリンで、当時、軍の基地で悩みの種であったお多福風邪と麻疹に特に効果的でした。 別の分画からは、血液型を判定する試薬が開発され、更に別の分画からは繊維素膜と繊維素泡が開発され、脳外科手術の際の止血用に用いられました。 この様に、血液の需要は益々拡大し、軍部は必要な輸血用血液を10万パイントと当初見込んでいましたが、その見込みは大幅に外れ、1943年末までに乾燥血漿250万単位とアルブミンアンプル125,000本を受け取りました。 それでも、戦場で兵士達を診ている軍医達はこれでも十分ではないと報告する様になります。 こうした戦場の実態を調査していたのが、コーンの同業者であるエドワード・チャーチルです。 チャーチルはハーヴァード大学及びマサチューセッツ総合病院の外科学教授で、1943年春、陸軍の「巡察顧問」の一員として、北アフリカの米軍を検分しました。 戦時中に於ける米国の研究の強みというのは、政府が戦地に設備を急送すると共に、研究者を前線に送り込み、その成果を評価させたことです。 新兵器や技術が届く度に、戦地のエンジニアが点検を行って欠陥や故障があれば報告をし、それを受けて本国の技術者は設計を修正します。 同様に、医療技術の分野でも、その分析をする医療顧問団が派遣されました。 その派遣顧問団は、最高レベルの大学や病院から集められた、胸部外科、形成外科、脳外科、眼科、耳鼻咽喉科、その他いくつかの特定疾患など様々な分野の代表的な専門医達でした。 顧問達は、謂わば、軍医の肩越しに医療の現状を覗き込んで観察と批評を行うのです。 そして、戦場で活動する軍医達には、自らの持つ最高の処置法を紹介し、文書を回してその処置を標準化し、最新の医療について語るセミナーを行って、最新状況に聾桟敷に置かれている軍医の知識向上に努めています。 時には、自ら執刀することもありました。 しかし、この顧問団派遣は屡々軋轢を生み出しました。 軍隊で仕事をしている人間達に取ってみれば、顧問には直接の権限も何も無く、それが一端の命令をしてくるのに我慢出来ない人もいたからです。 それでも彼らは、助言をして実際に命を救うことで次第に尊敬を勝ち取り、遂には賞賛される様になりました。 てことで、明日は何も無ければ、戦場外科の話何ぞ。 |
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