気分はじぇんじぇん目蒲線

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今日は好い天気(と言っても、帰りに雨に降られましたが)で、仕事も久々に、電源工事があるけど立ち会いをしなくて良くなった事から、本当に久しぶりの週休二日となりました。

て事で、何処に行こうかと思っていましたが、前回、グリーンライナーに乗って、東急の支線群の変貌ぶりに驚いたので、10数年ぶりに目黒線、多摩川線、大井町線、池上線を回ってきました。
前回は、目黒線と多摩川線は、目蒲線と言う名称になっていたのですが、目黒線は何度も通った覚えがあるのに、多摩川線は分離後、初めて足を踏み入れた訳で。

多摩川駅で多摩川線に乗ろうと思ったら、川崎とかと同じ構造の二段高架式になっていて吃驚。
でも、多摩川駅を発車したら、何時もの様にのんびりした雰囲気の昔の目蒲線の沿線風景でした。
しかし、昔は構内踏切があって、両方のホームを行き来出来たので、写真撮影は頗る簡単だったのに、今は完全に改札が分離されているので、光線具合とか悪いと、幾度も改札を出たり入ったりしなくてはならず、結構非効率だったりします。

多摩川線には、東急7000系と7200系を改造した7700系と7600系が現役ですが、新しく新7000系が導入されており、のんびりした風景ともそろそろオサラバかもしれません。

多摩川線で蒲田までのショートトリップを楽しんだ後は池上線に乗り換え。
こちらも、10数年前には多数有った7000系は姿を消し、1000系が増殖していました。
ほんのちょっぴり7700系や7600系が走っていましたが、来年くらいには現役を退きそうです。
車体は数十年間使用可能なのですが、設備やメンテナンス面に課題があり、使えるのに廃車せざるを得ないんだとか。
小田急電鉄の特急車も、車椅子対応が出来ないからと言う理由で、廃車されてしまったので、エコなんだか何だか判らなくなりますね。
とは言え、捨てる神あれば拾う神ありですから、地方鉄道がこの手の車輌、諸手を挙げて歓迎するんですが。

しかし、此処も何時の間にか、構内踏切が消えていました。
普段使う人は良いけど、慣れない人はどうするんでしょうね。

池上線の撮影をしていたら、何だか雲行きが怪しくなってきたので、勇気ある撤収して、大井町線に乗るべく旗の台へ。
昔は、この旗の台、池上線と大井町線共に対面ホームの貧素な駅でしたが、今や大井町線は2面4線の堂々たる乗換駅ですよ。
十数年前、初めてこの地を訪れたのは、確か雪の日で、ステンレス車が寒々としていたのですが、暖色の大胆な配色の車輌が行き交っていました。
此処では、普通をちょっと撮影して、その後で急行に初めて乗りました。
旗の台から大井町までノンストップ、今まで普通しかなくチンタラチンタラ走っていたのが夢の様です。
冷や飯とかそんな話は何処へやらですよ。

目黒線の3000系(京浜東北線を現在退きつつある209系の姉妹車)は座っているとお尻が痛くなるのですが、此処で使用されている新6000系、多摩川線、池上線で使われている新7000系は、中央線なんかに投入されているE531系と同型車なので、座席の座り心地も良いですし、液晶テレビが退屈を感じさせません。
そろそろ、目黒線の3000系もリニューアルして欲しいのですけどね。

その後は三軒茶屋に行って、世田谷線にのんびり揺られてこようと思ったのですが、日没時刻が迫ってきて断念しました。
今度は、世田谷線と小田急線を堪能してこようか、と思っています。

そう言えば、目蒲線の前身の目黒蒲田電鉄は、渋沢栄一が構想した田園都市計画に対する交通手段を提供する為に設立された荏原電気鉄道で、これの経営陣に迎えられたのが、武蔵電気鉄道常務だった五島慶太でした。
因みに、彼を推戴したのは、阪急の経営者である小林一三。
渋沢栄一が構想したと言っても、彼は既に老齢で、その田園都市建設を実際に推進したのは、第一生命創業者の矢野恒太です。
しかし、彼も交通に関しては素人ですので、小林一三を招聘しようと考えました。
それに対して、彼が推挙したのが五島慶太だった訳。

荏原電気鉄道は田園都市株式会社から分離独立して目蒲電気鉄道となり、目黒線、大井町線の免許を引き継ぐと共に、武蔵電気鉄道と言う渋谷~横浜を結ぶ免許と、調布から蒲田を結ぶ支線の免許のうち、支線部分の免許を引き継いで、これを建設することにします。
この目黒線と蒲田支線を加えると目蒲線になる訳ですが、そう言う意味では先祖返りした感じですね。

そうして、1923年3月には目黒~丸子が開業し、9月に蒲田延伸予定でしたが、その際に関東大震災があった為、11月に開業がずれ込みました。
その関東大震災では、校舎を焼失した蔵前高等工業学校(今の東工大)の土地1.2万坪と、大岡山地区の9.1万坪の分譲地を等価交換し、蔵前校舎跡地は復興局に買い上げられ、一連の取引で、田園都市には80~150万円に達する莫大な差益が入ったと言われています。

で、その差益を元手に、田園都市と目黒蒲田電鉄は、東京と横浜を結ぶ鉄道を建設しようとして未だに建設に着手できない武蔵電気鉄道の経営権を手に入れ、武蔵電気鉄道は東京横浜電鉄と改称し、更に4年後には、目蒲電気鉄道は、母屋であった田園都市も吸収合併してしまいます。

1926年、丸子多摩川(今の多摩川)から神奈川(現在の横浜~反町の間)を開業し、目黒から神奈川までの直通運転を開始、多摩川~蒲田は区間運転となります。
つまり、今の多摩川線の運転形態は、開業当時の先祖返りと言う訳ですね。
翌年、丸子多摩川~渋谷が開業、田園調布~丸子多摩川は目蒲から東横に転用され、目蒲線はその間に線路を造り複々線となりました。
更に神奈川からは高島(今は無き高島町)は1928年開業で、国鉄横浜駅が従来の高島町付近から現在位置に移転し、東横線も横浜を開業させました。

従来、目黒発の際は乗客がおらず、「ガラ空き電車をご利用ください」と言う人を食ったコピーを出して宣伝したこともありましたが、渋谷~横浜乗り入れ以後、営業成績は急カーブを描き、乗客は4倍、収入は3倍になりました。

この利益を元手に、大井町線を建設し、目蒲線の連絡を洗足から大岡山に変更し、大井町線は大岡山~二子玉川が1927年7月開通。
しかし、目蒲線との交差部の用地買収が遅れた為、自由が丘~二子玉川を1929年11月に開業させ、大岡山~自由が丘は12月にずれ込みました。
因みに、自由ヶ丘は元々九品仏と言う名前でしたが、連絡駅に決まった時、地名であった「衾」を予定していました。
ところが、町名が自由ヶ丘となったので、これを採用した訳で。
九品仏は、大井町線開業後、自由ヶ丘の一つ先の駅がそう名乗りました。

その後、池上電気鉄道を傘下に納めます。
これは当初、目黒~大森の免許を持っていたのですが、大森付近の用地買収が上手くいかず、終点を蒲田に代えて、1922年に蒲田~池上を開業します。
その後、池上~雪ヶ谷(今の雪が谷大塚)に達したのが1923年ですが、其処で資金が尽き、川崎財閥傘下になります。
川崎財閥になってからは、後藤圀彦が専務になり、彼の手腕と川崎資本の力で五反田に達したのが1928年6月。

この間に、目蒲電鉄が全通したので、目黒を五反田に変更したのがこの時期です。
五反田から先は、山手線を越えて白金に行く免許を保持していたのですが、結局実現しませんでした。
そもそも、この鉄道の意義自体、目黒不動、洗足池、池上本門寺、御嶽神社の参拝客を目当てにしていた旧態依然の集客体制で、郊外型私鉄を目指していた目蒲などとは全然違います。

川崎財閥総帥の川崎肇と言う人は、日本火災保険の社長でした。
昭和初期には、池上を始め、京成、京王、王子、西武株を保有し、東武にも手を出していましたが、五島慶太の説得により、池上電鉄の株を手放し、以後、投資先を重機械工業へと変更していった訳です。

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