ニポポ楽園

タイトルは某所で余りに内容が過激すぎ、一般販売が発禁になったアルバムです。
22日発売ですが、買うのは、こちらで。
個人的に好きな文才のある無所属アイドルさんが歌ってたりするので、ちょっと支援したいなぁと思って書いてみました。

画像

明日から4連休なのですが、どうやら天気は良くないらしく、冗談抜きで4日間引き籠もりしそうです。
イマイチ何処かに行こうと言う気が無かったりするので、明日は、明後日以降に1泊2日で何処かに行く気力と、宿と交通機関を手配する術を確保しようと思ってみたりします。

それはそうと、東京駅の鉄ヲタ御用達の栄松堂書店、地下1階に次いで、地上の店舗も復活していました。
今日は、早売りの雑誌と光人社NF文庫、8月と言えば、渡辺洋二氏の文春文庫、今年は屠竜、後は新書を若干と、大日本絵画の『捕獲戦車』、Nicholas Rankinの"TERRORISM FROM GUERNICA"を買ってきました。

昨日、『江戸東京地名事典』を読み終えたので、次は何を読もうかと考えていたりして。

さて、1877年と言えば、西南戦争があります。
これには、中央より鎮台兵や巡査隊と言った人々が6.6万人も動員されて九州の戦いに参加しましたし、彼等が手にする武器、弾薬などの軍需物資、現地で消費する食糧、衣料など膨大な数の物資が必要でした。
これらは、当時の貧弱な道路インフラでは荷を捌ききれず、全て汽船によって九州の主な港に輸送され、其処から軍夫の手によって、南九州の前線へと運ばれたり、前線に歩いていったりした訳です。
こうした汽船の徴用数は130隻で、岩崎弥太郎の率いる三菱会社は、1,000トン以上の大型船の殆ど、そして、上海航路就航船を除く殆どの船舶、44隻を動員しました。

これは当然、儲け話です。
他にも一杯船主と呼ばれる、1隻しかない船の持ち主が挙って徴用に応じたりしています。
このため、各地の一般旅客や貨物輸送は圧迫され、運賃が暴騰すると共に、全く汽船を持っていない人々も、海外から汽船を買う、或いは新たに建造するなどして海運業に進出する者が増え、この時期110隻の船舶が増え、船主は70余名が新たに登録されました。

汽船会社も各地に設立され、関西から瀬戸内に掛けて、和歌山に明光会社、共立会社、淡路に淡路汽船会社、岡山に偕行会社、広島に広凌会社、徳島には船場会社、太陽会社、高松には三港社、丸亀には玉藻会社と様々な地域汽船会社が誕生しています。

明治10年代になると、先行会社は大阪~下関間を毎月3往復するように成っていきます。
1880年には神戸偕行社(岡山に誕生した偕行社が神戸に移転したもの)が神戸~多度津~三津浜~別府~八幡浜を結ぶ郵便路線が開設され、郵便物がこのルートで配送されることになりました。
当時、定期航路が開設されると政府は郵便物の輸送を命令しており、東京発の新聞紙、雑誌類などの郵便物は、中国・四国宛のものは神戸、九州宛のものは長崎へ東京から船便で輸送されています。
因みに、偕行社は1870年に岡山池田家中の安井改造と言う藩士が提唱して設立された蒸気船航行会社で、この頃には大小20隻以上の蒸気船を有している中々有力な汽船会社でした。

また1881年には、江州彦根の商人大西定兵衛が臼杵留惠社の後援で大分丸、第一臼杵丸、第二臼杵丸を建造して大阪~多度津~三津浜~別府~佐賀関~臼杵~佐伯~細島への航路を開設し、同じ頃、佐伯の宮崎喜兵太は、佐伯丸を建造して、大阪~北四国の各港~別府~細島の航路を拓き、その後、亀鶴丸を建造して、日向油津まで航路を延長する様になっています。
大阪から各地へ出航する船は月々で延べ60隻近く、広島(宇品)への寄港はうち20隻(広島止まりが12隻)、山口の各港に寄港して下関、西九州に赴く船は延べ27隻と非常に多い船が瀬戸内海を行き来しています。
正に、海路は山陽道交通の大動脈だった訳です。

この時期の会社所有船は、偕行会社(兵庫)が静凌丸、明凌丸、運貨丸、六甲丸、速凌丸、第一凌波丸、第二凌波丸、安凌丸、光運丸の9隻、共立会社(和歌山)が新和歌ノ浦丸、太陽会社(徳島)が太陽丸、朝陽丸の2隻、船場会社(徳島)が長久丸、末広丸、鵬勢丸、巳卯丸の4隻、撫養会社(徳島)が撫養丸、大安丸の2隻、広隆社(広島)が広凌丸の合計19隻で、残りが個人船主で2隻以上所有しているのが、大阪府では、猪飼徳兵衛(平穏丸、雄ノ丸、此花丸、三保丸)、杉村佐太郎(狭貫丸、浦安丸、無事丸)、住友吉庄衛門(安寧丸、康安丸)、大西定兵衛(第四大分丸、鎮西丸)、南方一郎(静海丸、静竜丸)、寺村富永(明光丸、明事丸)、兵庫県の岩崎英之助(第一赤穂丸、第二赤穂丸、第三赤穂丸)、和歌山県の阪上伝吉(名草丸、和歌浦丸)、広島県の橋本吉平(平運丸、平辰丸)、愛媛県の菊池行造(八幡丸、新八幡丸)で残り48隻が所謂個人の一杯船主で、その数は大阪に11隻、兵庫に4隻、岡山に2隻、大分に2隻、愛媛に1隻などとなっています。

こうした航路の拡大と隻数の増加は西南戦争後、次第に競争となっていき、過当競争による運賃収入の低下、メンテナンスを考えない航行などによる事故の多発などマイナス面が大きくなり、1884年、これらの多くの船は、一つの会社、即ち大阪商船の下に結集されていくことになっていきます。

因みに、私の父方の祖母の家は、代々岡山の廻船問屋で、明治期に汽船業界に進出しましたが、台風で持船が沈み、陸に上がって公務員となったと聞いています。
もしかしたら、この中に、うちの祖母の家の持船があるかも知れません。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのトラックバック