海へ山へ

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今朝、何処に行くか考えて、結局、明日の飛行機で空路長崎空港へ。
佐世保から平戸を経て伊万里、有田とぐるっと回って、熊本で泊まり、翌日は阿蘇でトロッコ列車に乗り、戻ってから人吉に抜け、帰りは熊本空港から空路帰ってくると言う非常に効率の悪いルートになってしまいました。
地図をよく見れば、福岡空港から博多を介するか佐賀空港から入れば、有田にすんなり抜けられますし、佐世保やハウステンポスに出てから海路を取れば熊本には三角港経由で行けるし、人吉方面に行ったら其の儘鹿児島まで抜けてしまう方が近くて、鹿児島空港から帰るのが効率が良いと気がついても、既にチケットは予約済み…orz。

矢張り、事前に計画しておくべきな訳で、行き当たりばったりでドタバタ計画してては駄目ですねぇ。
まぁ、これが私の旅のやり方と言えばやり方なんですが…(笑。

と、兎に角(^◇^;)、明日は松浦鉄道、明後日はくま川鉄道と南阿蘇鉄道を楽しんできます。
早朝に出て、熊本電鉄と熊本市電を楽しむと言うオプションもありますね。

それにしても、今日の雨は凄かった。
丁度、銀行まで行って飛行機代金を振り込んで来て、帰りに医者によって、散髪屋に行くと可成り降られました。
御陰で、ディバックの中は水浸しで、これを明日持って行けるかどうかってところです。
一応乾かしているのですが…。

さて、昨日までのお復習いになるのですが、九州と阪神間を結んでいた航路の話。

明治初期には、米国の船会社が月2回の定期便を運航していました。
1869年、太平洋郵便蒸気船会社が横浜~神戸~長崎~上海を結ぶ航路を開設した訳です。
その5月には戊辰戦争が終結しており、東北まで遠征していた西日本各地の藩士は、帰国に当たってこの船便を大いに利用したようです。
当時、日本人の外国船利用は乗船地で許可を受けなければならない規則でした。
因みに、1869年4月に運航された神戸~長崎間の乗船者名簿から藩士の利用を抜粋してみると、次の様になっていました。
New York号:金沢前田家中1名、宇和島伊達家中1名
Costa Rica号:備前池田家中1名、厳原宗家中1名、高鍋秋月家中1名、金沢前田家中1名、福江五島家中1名

1870年には大阪~博多にヲテント丸、大阪~長崎に浪花丸、豊浦丸、スタンチ号が就航し、1872~73年にはこれらに加えて長崎航路に運貨丸、博多航路に金刀比羅丸、白水丸が加わりました。
1873年に初めて阪神~別府航路が開設され、1875年には博多航路に光運丸、鴻城丸、肥後航路が開設され、テボール号、長崎丸が就航しています。

日本人会社の国際航路としては、1875年に三菱商会が横浜~大阪~長崎~上海に航路を開設したのに加え、未だ外地的な趣を残している沖縄についても、三菱商会が東京~神戸~大阪~鹿児島~名瀬~那覇の路線を開設しています。
因みに、那覇航路は大阪から10日掛けて同地に赴いていた様です。
今なら、45時間で東京~那覇を結んでいるみたいですけどね。

1881年になると、多度津、三津浜、三田尻、下関経由長崎航路とか、三津浜経由の別府、佐賀関、細島航路、別府、佐賀関経由の八幡浜、宇和島と九州各地と阪神間を結ぶ航路が多数開設され、大動脈化している事が判ります。

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