ぼくのかんがえた「がいこくじんさんせいけん」

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いや、思うんですが、何で外国人参政権如きに熱くなっているのだろうか、と。
日本国民の有権者総数1億人余、それに対し、在日朝鮮人、韓国人、華僑が1億以上も居るのかと言えばそんな事は無く、結局、単なるレトリックに過ぎないのではないかと思ってみたり。
地域的にこうした人々が逆転するケースもある訳ですが、例えば外国人参政権の資格を、日本で出生し、20年が経過した者、若しくは日本に滞在し続けて20年が経過した者とすればだいぶん絞れるでしょう。
日本人が少ないのは、単純に投票率が悪いだけではないか、と。

豪州の場合、投票は国民の主権行使と言う位置づけです。
従って、投票に行かなければ、50豪州ドル(約3,300円)の罰金が課されており、投票率は95%を超えるそうです。
現在、10万人の有権者のある都市で70%の投票率とすれば、3万人が棄権したこととなりますが、これに3,000円の罰金を科したら、罰金総額としては9,000万円になります。
これを例えば選挙が行われた地方公共団体の収入とすれば、地方公共団体も随分助かるのではないか、と。
国政選挙で投票率70%だとすれば、3000万人に罰金が課されますから、900億円の臨時収入が見込めますな。
払いたくなければ、選挙に行かなければならない訳で、例え集票力のある集団がいたとしても、全体から見たら埋没してしまいます…まぁ、これが与党がこれを導入しない原因だったりする訳ですが。

投票率が上がっても白票の問題がある訳ですが、これについては、全候補者が有権者にアピール出来なかったと言う事で、預託金から得票率に応じて比例配分で、白票1票につき500円とかを徴収すれば、候補者にとっても結構なプレッシャーになるのではないか、と思ってみたり。
もし、地方選挙での外国人参政権が問題になるのであれば、国政選挙にしてみれば、全体から見れば外国人当選者の数は微々たる数になるでしょうから、そんなに戦々恐々とする必要は無いのではないでしょうか。

結局、政治家が各々の有権者にアピール出来ないと言うのが最大の問題な訳で。

なんでこんな話を冒頭に書いたかと言えば、1920年代から在日朝鮮人の生活権擁護・要求運動に端を発して、三・一独立運動やロシア革命の影響もあり、在日朝鮮人学生、知識人の中にこうした動きに呼応する動きが出て来たからだったりします。
朴烈などの無政府主義者間グループ、社会主義系統の北星会、一月会の結成に影響され、また、彼等の働きかけもあって、これまでの親睦会や民族団体に加え、労働者団体が結成されていきます。
1922年に東京で朝鮮労働同盟会が白武、李憲等によって創設されると、直ちに大阪でも同じ組織が作られ、この他、神奈川、神戸、福岡、山口でも組織され、1924年のメーデーデモには東京・大阪で参加しています。

1925年2月になると在日本朝鮮労働総同盟が結成され、資本家階級の抑圧と迫害に対し抵抗し、8時間労働、最低賃金の設定を目標に掲げていました。
この団体の動きは、朝鮮にも波及し、1927年に朝鮮で新幹会が結成されると、約200名が参加して東京支部、大阪支部が相次いで結成されます。
また、在日女性団体として、槿友会が結成されました。

1925年、朝鮮共産党が結成されると、1927年にはその日本総局が置かれることとなります。
但し、こうした動きはあくまでも地主階層の出身者で左翼思想に影響を受けた知識人が中心で、労働者をオルグするまでには至っていません。
また、共産主義運動に関しては、未だ国際主義の影響が強く、1928年のProfintern第4回大会で、植民地労働者は本国内で労働組合に参加することが決定され、その後のKominternもこの方針が認められた為に、在日本朝鮮労働総同盟は解散し、日本労働組合全国協議会(全協)に参加することになりました。
こうして在日朝鮮人労働者は、日本の産業別労働組合の組合員となり、同時に朝鮮人も日本共産党に参加し、その中には後に幹部となる金天海、金斗鎔等がおり、影響は1945年以後にも及びました。

この過程の中で、在日本朝鮮労働総同盟のピーク時である1928年には、3.3万人の組合員がいましたが、全協に参加したのは僅かに5,000人程度しかおらず、1935年には弾圧や運動の極左的な激しさに脱落する者が相次ぎ、300余名に落ち込んでいました。
全協に参加せず、独自の組合を維持したり、日本労働総同盟系の組合に参加する者も多く、独自の組合の代表的なものには、済州島と大阪の航路を持っていた東亜通航組合があります。

こうした労働組合は朝鮮人の労働条件改善に一定の成果を挙げていますが、官憲も激しい弾圧で応酬し、大規模発生の労働争議は出来なくなっていきました。
それでも、自然発生的な争議は屡々発生しています。

一方、この様な過激な労働運動と一線を画したものとして、朝鮮総督府官僚の丸山鶴吉、赤池濃等の指導で内鮮宥和を掲げる朴春琴等を中心に、1921年に相愛会と言う団体が作られました。
この団体は一応朝鮮人によって組織され、労働ブローカー的な役割を果たしていましたが、流石に裏で日本人が糸を引いているのが丸分かりなので、朝鮮人に支持されていませんでした。

話が飛びましたが、こうした背景の下、導入されたのが1925年の普通選挙法です。
これは、満25歳以上の男子であれば、軍人、華族の戸主、余程の貧乏人、一定の土地に1年間居住していない者以外は選挙権を与えるとしています。
即ち、欠格事項に該当しなければ、本土では朝鮮人にも選挙権が与えられた訳です(朝鮮本土や台湾本土の居住者は1年以上直接国税15円以上を支払う人でないと選挙権が与えられていない)。

在日朝鮮人の立候補は1927年に浜松市議会議員に幾人か立候補したのが最初です。
1932年の衆議院議員選挙では、東京四区から朴春琴が立候補して当選しました。
彼は、先に掲げた様に内鮮宥和を掲げていた相愛会に関わっており、朝鮮人の支持が無く、左翼的な労働運動と一線を画していましたが、意外に当選してしまい、彼の当選は他の在日朝鮮人に影響を与えています。
市会議員でも、尼崎市会議員に同じ宥和派の朴炳仁が当選しました。
確かに、彼等の票の多くは集住地区の票だったりしますが、それに加えて日本人の支持も得ての当選です。
左派系の朝鮮人立候補者もいましたが、彼等は落選しています。

1936年12月現在、全国で67名が立候補して21名が当選しています。
主に市会議員ですが、地域社会でも彼等の動きは無視出来なく成りつつありました。

但し、選挙に於て、朝鮮人の棄権率は衆議院議員選挙で平均70%に達しています。
日本人の棄権率は20%程度ですから、その棄権率の高さが目に付きます。
これは朝鮮人の多くが、選挙に参加しても、自分たちの権利や利益を拡大するとは思われず投票しなかったこと、門司の判らないものがいた事などが挙げられます。

その後も朝鮮人の立候補者はいましたが、戦時体制が進み、大政翼賛会の体制になると、朝鮮人が独自に立候補することが出来なくなり、先の朴春琴も落選してしまいました。
まぁ、これを見ても判る様に、そんなに危機感を抱かなくても良いのではないか、と思ってみたり。
大体、市議会議員1人当選させるのに、朝鮮人票だけでなく、日本人票も必要なのを見れば、対抗馬として、「魅力ある」日本人候補者が1人いれば、そんなに心配しなくとも良いのではないでしょうかねぇ。
それとも、そんなに日本人に人材が居ないのでしょうか?

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