月華門=CCTV

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やっと監査第2日が終わった…。
取り敢ず、他社に比べればマシな方らしい。
此の儘、何も無く過ぎてくれます様に…(-人-)ナームー..。

さて、何時もはアフリカ話だったりするのですが、隣国の高層ビルが呆気なく焼け落ちたので、その話題。

北京の姿はその権力者毎に変更されていきますが、最も変貌が激しかったのは毛沢東が中国の覇権を握った時です。
質素を装っていた毛沢東ですが、実は幾つも邸宅を保有していました。
その設計を行ったのが張開済と言う建築家です。
彼は北京に、釣魚台國賓館をも設計しますが、党の要請でこれを広大な規模に拡大しました。
その狙いは、近代中国の功績に懐疑的なフルシチョフが訪中した折に、フルシチョフを畏怖させたいと目論んだからです。
折しも、毛沢東はモスクワで行われたボルシェビキ革命40周年記念行事から帰国したばかりであり、ソ連側はクレムリンの中に特別な浴室を準備して毛沢東をもてなしましたが、毛沢東は中国の配管工事技術も、ソ連に劣らない事を悟らせ、ロシア人に大きな顔はさせまいと決意していました。

この他、張開済は1958年には中国国家博物館の設計も手がけていますが、この建物は人民大会堂と共に天安門広場の長い二辺を形成しています。
その現代版として作られていたのが、今回の火事で焼け落ちたCCTV本局と、オリンピック・スタジアムです。
因みに、張開済は毛沢東との個人的な関係を保っていましたが、文化大革命ではその個人的関係も報われず、10年の間、掃除夫として過ごす羽目になっています。

ところで、天安門広場は、昔からあった訳ではありません。
元々、義和団事件の前まで、天安門の前は帝都の行政中心地であり、皇帝の遠縁に当る人々が住んでいる場所で、それと共に官庁街を形成し、外交団が居住していました。

1949年、北京に入った毛沢東がまず最初に手がけた建築は、天安門からの中央軸沿いに南へ丁度260mほど行った地点に打ち立てた人民英雄記念碑です。
その後、10年を掛けて天安門の城壁と既存の建物は取り壊され、其処に44万平方メートルの空間を造り上げた訳です。
これが天安門広場と言う名前になった訳です。

建国10周年に向けて、1958年11月から1959年9月までの10ヶ月で延べ12,000名の労働者によって、広場は舗装され、その周辺に2棟の巨大建造物が建てられました。
作業は24時間体制でしたが、1958年末の時点で、ソ連人顧問達はプロジェクトは絶対期日まで間に合わないと警告していました。
6月になると、「ひょっとしたら可能かも知れない」と言いだし、9月には「中国は大躍進を遂げた」と評します。
そして、毛沢東はちゃっかりそのフレーズを自分のスローガンに使っていたりします。
元々、こうした巨大建造物の建築は、スターリンの影響を強く受けたもので、毛沢東はスターリンの記念碑嗜好を広大なスケールで反映させる様、自国の建築家に求めた訳です。
因みに、フルシチョフのスターリン批判では、先任者が妄想に捕らわれた様に巨大建築に資源を浪費したことを論っており、中国を訪問したフルシチョフは後に、先任者の影響とばつの悪い対面を果たすことになります。

人民大会堂は1958年に張開済のライバルである張鋪が設計したもので、スターリン様式の壮大な柱郎を備え、各省ごとに集会室が果てしなく延々と続き、それぞれの部屋は次の部屋へと続いています。
1万人収容の大会議場の役割は、指導者に拍手喝采する為の装置であり、連続する集会室の場というべきそんざいです。
また、誰も不満を持たない様に、5,000名収容の大宴会場もあります。
これに一種の王宮的な要素も加え、外観を一枚岩的にして、王宮の建物にのみ使われていた鮮黄色をふんだんに用いていました。
その真向かいにあるのが、張開済が設計した革命博物館と中庭を挟んで対峙する中国歴史博物館であり、両方の建物を対峙させることで、呼応させています。

外交公館は北京の東側にある野原に追いやりますが、中国が世界に門戸を開くと、ホテルを建てるべき場所は明らかに其処になり、商業ビルがそれに続き、東側一帯は高層ビルが林立する様に成ります。

西側には北京を自己完結型の都市にする為に各種の工場が建設されていたのですが、改革開放政策が進むと巨大な国営企業はやっていけなくなり、中国最大の北京第一工作機械の工場は姿を消し、2001年から超高層マンション群に取って代わられることになります。
その近くにあった敷地面積10haのオートバイ工場は更地になり、この地に建てられたのが中国中央電子台本局の新ビルでした。

CCTVの本局はコールハースと言う建築家が設計したものですが、彼は何か壮大なものを生み出す目的のコンペに招待されました。
指示書には、ビルバオのGuggenheim美術館に触れており、中国人は明らかにランドマークを欲しがっていたと思われます。
同時期に召集されたのは、金茂大厦の尖塔と、上海環球金融中心を設計した2名のアメリカ人建築家で、彼等はこのコンペを同じ様な超高層ビルを建設するものと理解していました。

コールハースは、そうした考えに与しませんでした。
300もの高層ビルが建ち並ぶ商務中心区で、301番目の超高層ビルを建ててもランドマークにならないと見抜いたからです。
コールハースの説明にはありませんでしたが、コンペ検討委員会の委員の中に英国人建築家がおり、彼の言によれば、コールハースの建築は、「中国の月華門、つまり縁取られた穴、あるいは何千年も昔に中国で後漢のシンボルとされていた青銅や翡翠で作られたずっしりしたものなのである」と説明されました。
そして、「これはポップなイメージであり、パリの凱旋門や、グランダルシュを連想させるものとして見る事が出来る」と説得し、彼は勝者になりました。
因みに、アメリカ人建築家の他に、日本人建築家と華東建築設計研究院の案もあり、日本人と華東建築設計研究院の案は最終コンペまで残りました。
費用の方は、圧倒的に日本人と華東建築設計研究院案が安かったのですが、コールハースは建築模型を造り直して、その模型をCCTVの幹部宅の間で巡回させ、彼等の理解を求めました。

しかし、それでもコンペ勝者決定から公式発表まで3ヶ月、定礎式まで更に1年が経過しています。
これは、CCTVが「党の声であり、国家プロパガンダの中枢であり、十億の人々に何を考えるか語っている機関なのである」と言うものであると考えられていた為、国家中枢の了解を得るのに手間取ったからだと言われています。

ところで、コールハースはグラウンド・ゼロのコンペは参加を拒否しました。
これは自己憐憫の為の記念碑をスターリン主義的な規模で建てる試みだと述べています。
正に同時期に、コールハースは、北京で最も高いビルを建てる仕事を手に入れようと虎視眈々と狙っていた訳です。
倫理的な含みに対して質問された時、彼は、「中国の制度は急速に変わっているので、この建物が完成する頃にはCCTVは民営化され、中国は抑圧を政治の道具とするのは諦めていることだろう」と述べていたりする訳で。

コールハースは建築家としては米国で挫折しています。
その屈折が、独裁主義国家とも言うべき中国への進出を行わしめたのではないかと言われています。

CCTVの構造は2つの主要なタワーからなっており、最上部の10階分は空間に突き出したL字形の翼部で連結されています。
そして、地上にも釣合を保つ部分があります。
素人目にはとても不安定に見えますが、実際にはそれによって2つのタワーが安定し合うので、これを建てるのに必要な鉄筋の量が減ることになる訳です。
また、タワーの外部は一見でたらめなパターンで斜めの筋交いが網の目状に入っています。
最も力が加わる部分に筋交いの線が最も集中する様に造られており、外壁(スキンと彼等は呼んでいる)と支え合いの双方によって2つのタワーの内部は柱が不要になり、例外はエレベータ周囲の一列だけで、これが建物の背骨の役目を担っています。
当初のアイデアでは、エレベータをタワーの傾きと並行に6度の角度で傾ける、急傾斜のケーブルカーみたいなものにする予定だったりしますが、これを実現すると、全ての階は同じ図面でありながら数メートルずれたものとなるはずでした。
流石に、これは余りに費用が掛かりすぎ、複雑になりすぎるので、エレベータは垂直に改め、傾いたタワーはケバブの様に串刺しにすることになりました。

コールハースは実はこのプロジェクト以上のものは手がけたことがありません。
つまり、コールハース一世一代の賭けだった訳ですが、その賭はどうやら無残に潰えることになりそうですね。

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