じん、じん、じんぎすかん

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昨日は21時まで株主総会の準備をして、終わってから皆を慰労する意味で、焼き肉を食べに。
と言っても、笑笑の系列ですけどね。
みんな、「取り敢ず生!」だったのですが、私は深夜のお仕事が待っているかも知れなかったので、ジンジャーエールにしてみたり。
で、店に入ったのが微妙な時期で、あと数分で「二次会コース」が選べたのですが、折角焼き肉を食べに来たのに、これには焼き肉が無く、これは涙を呑んで見送り。

で、更に付け出しの枝豆を食っていると、全員が「生」だったら、シャウエッセンを用いた料理が半額だったり。
交渉の結果?、私はドライバーと言う事で無事、半額料理をゲットしました。
おっさんから若手まで色々取り混ざっているので、彼方此方話が飛んだのですが、結局2時間位、喋って、喰って、呑んで…で。
こう言う時位しか、他の立場の若手と喋ることも無いので、結構楽しめました。

あ、焼肉と言えば、北海道のサッポロビール園で食べた成吉思汗料理は美味しかったです。
まあ、タダ飯だったから余計にそう思ったのかも知れません。

この成吉思汗料理、元々は、1911年頃、中華料理の烤羊肉と言う料理を井上一葉と言う北京在住の人物が、北京にある「正陽楼」と言う料理店で見つけたのが始まりです。
そして、当時時事新報の北京特派員をしていた鷲澤輿四二と言う人物を誘って、早速この烤羊肉を食べに行きます。
この時、鷲澤がこの料理に日本風の名前を付けてやろうと言う話になり、「三千歳」と言う名前を付けたそうな。

それから程なくして、鷲澤が北京にやって来た日本人達を連れて正陽楼に来て、「三千歳」を食べていると、食べていた人々の中の1人が、「成吉思汗が陣中これを好んで食べた」という様な話をした為、「三千歳」改め「成吉思汗料理」だと衆議一致し、以後、この料理を「成吉思汗料理」と呼ぶ様になった、と『食道楽』1931年5月号で中野江漢と言う人が紹介しています。

この烤羊肉は、冬の料理であり、しかも庭に出て食べる野趣溢れる料理でした。
人々は寒天の空の下、机上に鍋を置いて半焼きの木炭を燻らせ、薄く切った羊肉を箸に突き刺し、特別のタレを付けながら煙に当てて立食するもので、寒いので当然酒を共にすると言うものです。

その起源は、イスラームや満州料理であり、イスラームでも特にウイグル族が好んで食べているものでした。
北京の烤羊肉は、漢族の周縁に暮らすオアシス農耕民であるウイグル族や、狩猟農耕民の満州族が作っていた料理が、北京料理に組み込まれたものです。
しかし、日本ではその名称からモンゴル料理と勘違いされることが多かったりします。

ところが、モンゴルでこうした羊肉は、火で炙ることは余りしません。
羊肉は煮るのが主体で、焼く場合は穴を掘って焚火を燃やしその熾で焼いたり、毛皮付のまま体内に焼石を詰めて焼いたりするものの、これは遊牧以前の狩猟民時代に伝えられたもので、モンゴル人は焼いた肉を健康に有害であると考えているそうです。
従って、成吉思汗料理の様な焼肉料理は存在せず、また、成吉思汗が陣中で食べたというのも作り話にしか過ぎない訳です。

そして、この料理が日本に伝えられた訳ですが、この料理は主に北海道で普及しています。
日本での羊の飼育は、軍服用の羊毛を自給する為に、1875年に下総御料牧場で開始され、翌年に札幌種羊場で本格化します。
こうして、北海道は羊飼育の先進地域となっていき、1918年頃からは札幌月寒羊ヶ丘の種羊場で羊肉料理が作られる様になります。
但し、この頃の羊肉料理は、牧場の中だけのもので、道内での消費は殆ど進みませんでした。

その一方で、政府は動物性蛋白質の資源確保に熱心であり、羊を活用する為に、羊肉食の普及活動を促進しました。
北海道庁もこれに関与し、1936年に札幌市狸小路6丁目のおでんと焼鳥の店「横綱」でジンギスカンの試食会を3日に亘って開催しました。
ところが、無料の試食券を配ったにも関わらず、お客はさっぱり来なかったそうです。
ただ、「横綱」は意地になり、おでんと焼鳥の他に、成吉思汗料理の営業を続けますが、これが花開くのは戦後になってからでした。

東京でも政府の肝煎で、羊肉の普及が図られました。
1920年3月に農林次官が各局の部課長や新聞記者を集め、農商務省会議室で羊肉の試食会を開いたのが東京での動きの初めです。
これ以降、羊肉の普及を図るべく活動が継続されたのですが、1929年3月23日から4月30日にかけて食糧に関する研究や普及の為に陸軍省が組織した会員組織の糧友会と言う団体が主催した「食糧展覧会」です。

食糧展覧会は国を挙げてのもので、上野公園を会場に36日間に亘って開かれ、73,000名もの入場者が訪れました。
その中にはあらゆる食糧をテーマに展示や実演が為されていたのですが、羊肉の普及には特に熱心で、会期中に羊肉調理法の実演が33回、つまり、ほぼ1日1回のペースで行われ、12種類もの羊肉料理が紹介されました。
その中でも成吉思汗料理がメインに紹介されており、これが一般の人々にこの料理を紹介した最初とみられています。

こうして、成吉思汗料理は徐々に広まり、1930年には既に銀座にこの料理を食べさせる店が存在し、1930年代後半には東京の彼方此方に成吉思汗料理を食べさせる店が誕生しています。
更にこの料理は家庭にも入り、『料理の友』の1937年2月号に、「昨今では家庭にすき焼き代わりに座敷で賞味される様になりました」と紹介され、専用の成吉思汗鍋も開発されて、売られる様になっていきました。
この鍋は、日本国内は勿論、朝鮮や満州でも購入出来た様です。
因みに、この頃の成吉思汗料理とは、羊肉だけで無く、鯨肉、鶏肉、牛肉、豚肉などあらゆる肉をタレに漬けて、焼きながら食べると言うものでした。

この成吉思汗料理、元々は北京料理から発した料理法ですが、その料理法は、冬に冷凍した生肉を薄く切り、焼いてから味を付けて食べるものでした。
しかし、1920年頃からタレで肉に味を付けながら焼く様になり、1930年代後半からは肉をタレに漬けてから焼いて、更に調味して食べる方法に変わっていきます。
一方で、先述の様に、北京料理に取り込まれる前、この料理の原型はウイグル族や満州族の食べていたものです。
ウイグル族の料理は地理的な問題から日本には入ってきませんでしたが、満州族のものは日本がその地に進出した事から、その文物が紹介され、この料理も拷羊肉として日本に紹介されています。
こちらは、北京のものと異なり、生肉のまま焼き、焼いてからタレを付けて食べる、初期の形態を残しています。
因みに、タレは大蒜を効かせた濃厚なものです。

満州からも同じような料理法が伝わったことから、一部では、この成吉思汗料理の名付け親は満州国国務院の駒井徳三だとする説もありますが、実際には先に見た様に、鷲澤の話が30年前に出て来ている訳で、この説は実際には眉唾物だったようです。

こうした料理は日本に伝わると、形態が大きく変わります。
まず、タレは醤油、砂糖、酒、七味唐辛子を合わせたものであり、その中に肉を30分ほど浸してから焼き、更に付け汁を付けながら焼いています。
つまり、北京料理の1920年頃の形態です。
但し、タレは完全に和風化していますし、焼き方も鍋に炭を入れて燻蒸するのとは違い、日本独特の調理器具である七輪と金網が用いられています。

満州系のそれも、肉を2~3口で食べられる位の大きさに切り、包丁の先で表面に刻みを入れてから強い炭火で網焼きして、醤油、酒、酢を同量ずつ混ぜ、それに葱と生姜の微塵切りを混ぜた汁につけて食べるものとなり、肉は羊肉だけで無く、牛肉、豚肉でも良く、焼き方も調味も日本式です。

一番大きな違いは、大陸にあった時は何れも屋外で食べるバーベキューの様なものだったのに、日本に入ると家庭で食べられる鍋料理的なものに変わった事です。

戦後、その味付けは淡泊なものから濃厚なものへと変わっていきます。
更に従来は肉だけの調理だったのが、野菜焼きも必須化され、その種類も大幅に増加します。
また、成吉思汗鍋も、脂が火に落ちても燃えない様に開口部を無くし、表面に溝を付けて脂が流れ落ちる様にしたものへと変化していきました。

因みに、この成吉思汗料理こそが、現在、日本でポピュラーに食べられている焼肉の原型的なものだったりします。
あ、昨日食べたばかりなのに、また焼肉が食いたくなってきましたよ。

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