戦後の日本にも色々あった

画像

今日は凄く寒かったり。
一昨日、左側の腰が痛いからと言って右側を庇っていたら、今度は右側の筋が痛くて、何が何だか。
いきなり来るから始末に負えない。
と言っても、明日は薬を貰いに行かねば駄目なのですが、冷えるとまた腰に来そうな予感です。

さて、ラオスの話はちょっと脇に置いて寄り道。
1950年6月、一切の航空活動が禁じられていた日本に対し、国内航空運送事業運営に関する覚書が連合国軍総司令部から与えられ、日本人が再び航空機に乗れる見通しが付きました。
1951年8月、民間会社として日本航空が再建され、米国などから乗務員毎機材をレンタルして各地に路線を拡げていきます。
軍用としては、1952年7月、現在の陸上自衛隊の前身である警察予備隊の航空経験者に対し、米軍指導で操縦と整備訓練が浜松飛行場で開始され、その機材として連絡用の軽飛行機であるAeronca L-16が20機、Stinson L-5を38機供与されてスタートしました。

こうして、軍用機の運用がスタートしたと同時に、航空産業も1952年より解禁され、今まで鍋釜などを作って凌いでいた戦前の航空機産業が次々に復活します。
その中で比較的活発に活動を始めていたのが、富士重工、川崎航空機、新立川飛行機です。

最初に国産機を作り上げたのは新立川飛行機で、戦時中に製作していた九五式練習機の経験を活かし、うち捨てられたままになっていた日立「神風」空冷星形発動機を装備して、1952年5月から製作を開始し4ヶ月後の9月17日に初飛行し、これは立飛R-52「タチヒ」号と名付けられました。
まぁ、戦後初の国産機と言っても、木金混合骨組に羽布張り構造と言う、「赤トンボ」と全く同じで、複葉機の下翼を取り除いた様なパラソル翼形式の固定脚尾橇式と言う、凡そ1930年代に逆戻りした様なオールドファッションでしたが、兎にも角にも、国産機第1号の栄誉を得て、全日本学生航空連盟の練習機として利用されました。
後に神風は撤去されてコンチネンタル空冷エンジンに換装したりもしていますが、このほか、戦前のR-38練習機を再生した英国製シラス・メージャーを搭載したパラソル高翼のR-53なんかも作ったりしていますが、商業的には失敗に終わりました。

因みに、国産機の設計を最初に行ったのは、日本大学工学部の木村研究室で、1951年にパンアメリカン航空の日本支配人から寄贈されたコンチネンタル空冷エンジンを使って複座軽飛行機を作り上げようとしたもの。
しかし、日本飛行機岡村工場の後身である岡村製作所が設計に勤しんだものの、予定自重の超過と実験に時間を要し、1953年の4月にやっと初飛行という事になりました。

川崎は、岐阜製作所に於いて1952年12月から製作が開始され、1953年7月21日に各務ヶ原飛行場で約20分の初飛行を行った、川崎KAL-1を製作します。
こちらはエンジン、プロペラ、タイヤと計器以外は国産品を使用し、タチヒ号に比べると低翼単葉、並列4座の密閉キャビンを持つモダンな機体で、練習用に利用できる様、複操縦装置を持ち、引込脚を持っており、全体的に第2次世界大戦中に川崎が生産していた飛燕の面影を持っています。
2機製作され、1号機は陸上自衛隊の連絡機として試用されましたが、審査の結果、艤装が外国機に劣り、尾輪式の降着装置は現代の機体にそぐわず、また尾輪式故の視界の不良などが指摘され、採用には至りませんでした。
因みに2号機は川崎の社有機として使用され、日本飛行連盟に所属して1954年4月セスナ170Bと共に戦後の日本機としては初めて台湾訪問に成功しています。

戦後、最初に航空界が湧いたのが、1953年の保安隊初等練習機プロジェクトです。
1953年、保安庁は浜松に保安隊航空学校を開設し、米軍供与の機体を利用して旧軍パイロットの再教育の他、新人育成を開始します。
そして、1953年度の予算要求として初等練習機50機、小型ヘリコプター28機の要求を盛り込みました。

この内、前者に応募したのは、富士重工と川崎航空機、そして新興勢力である東洋航空工業、コーンズ商会、そしてガデリウス商会でした。

富士重工は国産に走らず、先ずは技術習得をするとして、ビーチクラフト社から当時米空軍が初等練習機として大量に採用していたB.45メンターを提案します。

川崎航空機は、先のKAL-1連絡機をベースに、並列キャビン式を縦列複座に改修し、戦後の日本最初の前輪式引込脚の機体となったKAT-1を提案しました。
こちらは、1954年2月11日初飛行ですが、細部の艤装や機器は輸入されたメンターに及ばず、これまた不採用に終わり、2機製作された機体は何れも航空局航空大学校で練習機として使用されています。

国産機でもう1社提案したのが、1952年に設立された新興勢力である東洋航空工業と言う会社で、12月30日に初飛行を行った機体はTT-10と命名された機体です。
この機体は、主翼が木製骨組合板張り、降着装置は固定式でなおかつ尾輪式という旧態依然とした機体で、前2者に有らゆる面で及ばず、試作2機で打ち止めとなりました。
この2機は藤沢飛行場の日本青年飛行連盟に所属し、練習機として利用されています。

コーンズ商会は、英国製品の輸入商社らしく、当時英連邦諸国で初等練習機として大々的に採用されていたDe Havilland DHC-1を輸入し、応募したのですが、飛行性能は高く評価された反面、整備取扱方式の不便さ、倒立エンジンや尾輪式固定脚が時代にそぐわないとされ、不採用になりました。
また、ガデリウス商会はスウェーデン空軍が初等練習機として採用され、各国にも輸出されていたSAAB91を輸入し、応募しましたが、並列複座の為、米軍式を採用しようとしていた日本の訓練体系に合わず、これも不採用となります。

結局、このコンペは、富士重工に軍配が上がり、機体とエンジンの製作を富士重工に発注する契約を行おうとしましたが、コンチネンタルエンジンについては富士重工が契約する寸前で、富士自動車(現在のコマツゼノア)が契約を成立させていたので、エンジンは富士自動車、機体のみ富士重工となりました。
最初の20機は輸入され、富士重工宇都宮工場で組み立てられて1954年3月8日に試験飛行の後、警備隊鹿屋航空隊に配備されました。
続いて46機のノックダウン生産が開始され、9月3日にノックダウン生産第1号が初飛行します。
当時、富士重工では特装機や連絡機への改造、民間への販売やアジア諸国への輸出を企図して、国際価格まで下げる予定にしていました。
ノックダウンから進んで国産化した機体は、1955年10月15日に初飛行し、75機が生産され1957年に終了します。
因みに、当時は武器輸出三原則が無かった時代ですので、ビーチクラフト社との契約には富士重工の機体を東南アジアに販売する権利も入っていました。
これにより、第2次世界大戦の賠償という名目で日本政府から資金を得て、1958~1959年に掛けてフィリピン空軍向けに36機生産され、1959年にはインドネシア向けに1機が生産されています。

てことで少しこの話を続ける。



1/350航空戦艦伊勢(FUJIMI)甲板と飛行作業甲板塗装マスク
WingShipArt

ユーザレビュー:

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 1/350航空戦艦伊勢(FUJIMI)甲板と飛行作業甲板塗装マスク の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル

Gulliver200 1/200 E-2C 警戒航空隊 飛行警戒監視隊 (三沢基地) 54-3456
ガリバー

ユーザレビュー:

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by Gulliver200 1/200 E-2C 警戒航空隊 飛行警戒監視隊 (三沢基地) 54-3456 の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

面白い

この記事へのトラックバック