続・戦後の日本にも色々あった

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今日は医者に行ってリハビリ、んでもって、処方薬を処方して貰いに薬局に寄ったのですが、処方薬がまさかの足りずで、来週又、薬局に行く事になりました。
まぁ、固定客ではありますが、偶に別の薬局に寄ることもあり、数的に2ヶ月分の薬の処方なので、中々薬局としても在庫を確保するのが難しいのでしょうねぇ。
そいでもって先ずは今年初の八重洲ブックセンターに行って来ました。
今年は自制をかけているので、余り買うことは無く…こんなことするから出版不況になるのですね、判ります。
と言うか、先月が結構買い込みすぎた。

それから、どうすべぇと思ったのですが、東京駅からスカイツリー直通の特急バスに乗りました。
これ、京成と東武セントラル、JR関東バスの共同運行で、私が乗ったのは東武セントラルバスの高速バス仕様。
初めて乗ったのですが、30分で500円はちょっとぼりすぎの様な気がしてなりません。
だってねぇ、都バスなら直通で200円で行けるのが走っていた様な…。
車内は関西のお客さんばかりで姦しいことと言ったら…、しかし、車窓からめざとく人形の秀月を見つけるのは流石大阪のおばちゃんです。

兎に角、スカイツリーに行って来ましたが、いやぁ、流石に三連休初日で、団体さん、団体さん、一個飛ばして又団体さん、みたいな感じでした。
これから春休みに掛けて結構多くなるのでしょうねぇ。
登るとあっと言う間なのですが…。

さて、昨日の続きで。
保安庁の練習機採用では、結局富士重工がライセンス生産したB.45メンターが採用されたのですが、保安庁の小型ヘリコプター16機については、Hiller UH-12Bと現在の三井物産の前身である日本機械貿易が1952年11月から輸入したBell 47D-1を比較検討した結果、Bell 47D-1に軍配が上がり、これは川崎機械、後に川崎航空機がライセンス生産に関する技術援助契約を結んだ上で国産化に漕ぎ着けました。
因みに、Bell 47D-1は民間では毎日、読売、中日新聞社の他、日本ヘリコプター航空、大洋漁業、海上保安庁に納入されました。

川崎航空機のBell 47D-1ノックダウン1号機は1953年10月に初飛行に成功し、1954年1月に国産化第1号が初飛行に成功、2月から陸上自衛隊に納入されました。
このD型は川崎航空機で13機を生産した後、1954年からはBell 47Gの生産に切り替えられ、この型は翌年まで13機が生産され、第1号機は日本ヘリコプター航空に納入されると共に、ブラジルにも2機が輸出されました。
因みに、Bell 47Gの輸入第1号機は大洋漁業の「くぢら号」で、1953年11月から日新丸に搭載され、南氷洋捕鯨に活躍しています。
その後、このG型も性能向上型のG-2型に切り替えられ、1956年8月に国産第1号が初飛行し、1963年まで178機が生産されて、その内13機がビルマ空軍に輸出されています。
なお、1957年には川崎航空機でBell 47G-2を基にキャビンを拡大するなど改良を加えた川崎ベル 47G3B-KH4を、1975年までの間に211機生産しています。
これ、米本国でも同様にキャビンを拡大し、後部胴体を整形したBell 47Jが開発されているのですが、日本では日東航空と中日新聞、朝日新聞が採用しますが、日本ではKH4が好まれたのでこれ以上の輸入は行われていません。

ヘリコプターについても、国産の動きが沢山在りました。

1つ目は、1952年に東京に設立された自由航空研究所の一連の製品で、萩原久雄技師の設計により、一連のワンマンヘリコプターとして、萩原JHX-1~JHX-4が製作されました。
最初のJHX-1は直径7.3mのローターの先端にパルスジェット・エンジンを装備したものですが、これはエンジン着火に難があり、始動後には爆音が大きく、早々に放棄されました。
次のJHX-2からはパルスジェットに換えてラムジェットを採用、1955年にJHX-2、9月にはJHX-3を完成させます。
とは言え、何れも完成には程遠く、自由航空研究所も畳まれてしまい、後は自費と友人や航空局の援助、都立航空工業高等学校の協力を得て、1958年8月には燃料制御方式に改良を加えたJHX-4を完成させます。
これは回転翼の最大回転数を600回転として、9月1日に高度7mまで上昇する事に成功しました。
ところが、急激な着陸により機体を破損、ローターが接触して折れ曲がり、エンジンノズルも変形して使い物にならなくなりました。
事故原因はローターの超過回転でしたが、この4号機の開発までに当時の費用で300万円も掛かり、資金が続かず、JHX-5の試作は断念され、実用化の道は絶たれました。

2つ目も、パルスジェット・エンジンをローターの先端に取り付けたもので、福島県の池田明と言う人が自主開発した池田式パルスジェット・ヘリコプターです。
1954年4月から試作を開始し、8月24日に完成、ローターは3枚羽根でパルスジェットもこの人が独自に開発したのですが、此所で資金が尽きたのか、それ以上の進展はありませんでした。
恐らく、JHX-1同様にエンジン着火と爆音の問題に難があったのかも知れません。

3つ目が萱場製作所が作り上げた萱場試作ヘリプレーンです。
萱場製作所と言えば、戦時中にカ号観測機と呼ばれるオートジャイロを設計、製作した会社ですが、夢再びと言う事で、再度ヘリコプター擬きに挑戦します。
これは純粋なヘリコプターでは無く、セスナ170軽飛行機の主尾翼を取り去り、上部に支柱を取り付けてローターを取り付け、ローター先端にあるラム・ジェットエンジンでローターを回転させて垂直離着陸に用い、前進はセスナの機首に装備したレシプロエンジンで行うと言う下手物飛行機擬き、ヘリコプター擬き、VSTOLの奔り的な機体です。
1952年3月に早くも設計を開始し、1954年3月に完成したのですが、7月の地上テストで横倒しとなって大破し、このプロジェクトは中止となりました。

国産ヘリコプターとして一番モノになりそうだったのが、1953年に設立された日本ヘリコプター研究会が製作し、東京機械化工業が協力して試作した読売Y-1ヘリコプターです。
これは、読売と名が付いている様に製作資金450万円を読売新聞社が全面的に出資し、製造と飛行試験には通産省工業技術院から800万円もの試作研究補助金を受けていました。
何故、この様な官民挙げての協力が為されていたかと言えば、この研究会には大森丈夫、糸川英夫、堀越次郎と言った戦時中に日本航空機の設計をリードした蒼々たるメンバーが属していたためです。
Y-1は1954年10月から読売玉川飛行場で組み立てられ、登録記号も付与されて、11月上旬から試運転が開始されたのですが、トランスミッションやローターなどに様々な改修を施す必要があり、1955年2月から試運転を再開したものの、その後も激しい共振を引き起こすと言ったトラブルに悩まされ続け、1957年3月にやっと浮揚する能力がある見通しが付いたものの、既に川崎航空機がBell 47の国産化を行っていたため、開発打ち切りとなって、遂に1度も初飛行すること無く終わってしまいました。



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