日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた

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4月頭から休んでいたので流石に骨休めをする訳に行かず、今日から会社。
とは言え、立っていくのは未だしんどいので、始発電車で出掛けていったり。
しかし、仕事が終わらず、帰ってきたら21時頃と言うね。
…疲れた。

さて、今日はこの入院中に読んでいた本について。
日曜までパソコンを持って行かなかったので、熱が下がるとすることも無く、かと言って、昼のテレビはつまらんので、持って行った本を1日半分は読むことにしていました。

その中で最初に読んでいたのが通勤中に既に手を付けていた、『日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた』(嶌信彦著/角川書店刊)と言う本。

その昔(と言うか今もあるのかも知れませんが、最近日曜夕方は起きている事が少ないので)、TBS系列で「報道特集」という番組がありました。
その中で、この建物を取り上げていたのが印象に残っていて、ついつい買ってしまったのがこの本です。

満洲にいた兵士達は、一部の目ざとい将校を除き、8月9日に侵攻してきたソ連軍に蹴散らされ、武装解除されてしまいます。
そして、ソ連は彼等を国土復興のための労働力として、各地に送り込み、かなり長い間彼の地で働かせました。
シベリアの凍土地域に送り込まれた兵士達は劣悪な労働環境と食事、病気の蔓延などで多くの死者を出します。
しかし、手に職のある兵士は、遠くの地に送り込まれたものの、ある程度人間並みの扱いを受けることが出来ています。

UzbekistanのTashkentに送り込まれたのも、陸軍航空隊の航空機整備を任務としていた技術者集団でした。
彼等は、鉄道や森林伐採の代わりに、故郷から遠く離れた中央アジアのこの場所で、ソ連に4箇所しか存在しないボリショイ劇場を建設する為に呼ばれたものです。

彼等は、ドイツやイタリアなどの捕虜と共に作業に当たりますが、日本側の捕虜収容所の指揮官が出来た人でした。
彼は如何にこの逆境下で兵士達を統率し、全員を無事に返すかと言う事に腐心しています。
例えば、食事の割当について、ノルマが未達の者は食事が減らされましたが、それぞれの仕事の状況でノルマが達成出来ないこともあります。
普通なら、これで組織が崩壊してもおかしくありません。
そこを彼は、ノルマを達成して多く食事が与えられた兵士が、「一度与えられた食事を、自発的に」食事が減らされた兵士に与えると言う方法を編み出します。

当然、ソ連側から掣肘を食らいそうになりますが、ソ連のやり方を観察して、ちゃんとした理論武装をしての対応をしたのです。
幸い、ソ連側の担当者にも恵まれて、理解を得ることが出来、以後、組織が崩壊すること無く、最盛期500名近くいた日本人捕虜を統率することになります。

勿論、出る杭は打たれるの例え通り、周辺収容所で民主運動が盛んになった時、余りにこうした運動が低調だったことから、ソ連の政治将校から目を付けられて、所長自ら技術者では無く秘密諜報員ではないかと言う疑いを掛けられたこともあります。
此の時も、紙と鉛筆を借りて一式戦闘機の脚構造と油圧構造図なんかを書いて難を逃れたそうです。

劇場の建設は、元々彼等が技術者集団であったことから順調に進んでいきます。
他の枢軸国の捕虜は、余りこうした旧敵国の建設作業は熱心に行いませんでしたが、日本の兵士達は後世にも残る建造物を建設するのだから、手抜きをするのは日本人としての矜恃に関わる、として、建設段階はもとより、仕上げも完璧に行い、ソ連側の将校達からも一目置かれる集団になっていました。

日本側の捕虜収容所の指揮官となった人はアイデアマンで、将校はもとより、一般の兵士達、更にはソ連の将校や兵士、一緒に働いたウズベキスタン人からも慕われました。
御陰で、他の収容所よりも士気は高く、先に書いた様に民主化運動と言う名のオルグも低調でした。

こうして2年ほどの労働で地図に残る仕事、ナボイ劇場は完成しました。
正式な完成披露には招待されませんでしたが、その落成披露にはこの収容所、そして、その後別の収容所に散っていった仲間、ソ連側の担当者、ウズベキスタンの技術者達を一堂に会しての式典が開催されています。

それから暫くして、彼等の大多数はダモイとなり、舞鶴に向います。
この指揮官は日本に戻ってからも、みんながいずれ集まって久闊を叙する事が出来る様に、一所懸命、彼等の氏名、住所を暗記しました。
紙に書いているとスパイと間違われてダモイが取消される可能性があったからです。
こうして、舞鶴に着くと彼は旅館に閉じ籠もって、暗記した収容者たちの情報を紙に起こしたと言います。

因みにこの指揮官の下で仕事をした兵士達は全員が無事帰れたかと言えば、残念ながら抑留中に鉄道事故と転落事故で2名の兵士が斃れています。

それから時が経てTashkentの建物が8割以上破壊された1966年の直下型地震の時です。
ウズベキスタン人やロシア人と共にこの建物を作っていた日本兵達は、親しくなるにつれて色々と彼等と言葉を交わす様になり、日本は地震国であると言うこと、しかし、この建物はしっかり作ったので少々の地震が起きても崩壊しない自信があると云っていたそうです。
そして、1966年4月に起きたマグニチュード5.2の地震(これでも当時は世界最大クラスの地震だった)で殆どの建物が壊れた中、人々は誰からとも無く「ナボイ劇場の公園に逃げろ」と言い合って、中心部の公園に向います。
そこで彼等が見たのは、大地震にも拘わらず地震前と同じ場所に変わらずすっくと立っているナボイ劇場の姿でした。

ソ連の体制下にも関わらず、この逸話は何時しか中央アジアの人々に伝播していき、親日感情を醸成する切っ掛けになったと言います。

この建物の建築の歴史を紐解き、それが日本人によって建設された事実が報道特集で放映された時、偶々、そのオリジナルを見ていました。
その番組は大反響を呼びましたが、諸事情により再放送が為されませんでした。
この本を読んだ時、何処かで聞いた話だなぁと思ったのですが、よく考えるとこの放送が切っ掛けで書籍化が進んだのだなぁ、と。

そして、第2次世界大戦後の大混乱の最中、こんな(と言ったら語弊があるかもですが)僻地で、丁寧な仕事をして後世に建造物を残した兵士達の物語は、正に小説より奇なり珍なり摩訶不思議なりと言ったら言い過ぎでしょうか。

何となく、あと数年くらいしたらドラマ化されそうですけどね。

日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた
KADOKAWA/角川書店
2015-09-30
嶌 信彦

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