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<<   作成日時 : 2008/05/30 21:38   >>

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日本最初の下水道は、居留地を別にすると、先日の内務省衛生局長の職に就いていた長与専斎の働きかけにより、内務省の土木・治水顧問だったオランダ人デ・レイケの指導を得て内務省技師石黒五十二が設計し、1893年に着工、翌年竣工した東京の神田に建設した下水道が最初です。

先日聞いたタクシーの運転手さんの受け売りですが、東京でも山の手やら世田谷の高級住宅街に下水道が張り巡らされたのは比較的近年で、最初の下水道は東京の東側から敷設が開始されました。

1894年竣工の神田下水道網は、ある意味試行的なもので、限定された地域に敷設されただけでした。
東京市が本格的に下水道網を整備し始めたのは、1911年に始まり、1922年に三河島に汚水処分場を建設した時点で竣工となりました。
尤も、他の大都市を見ると、大阪とか神戸は、既にそれぞれ1902年と1903年に一部竣工している訳ですが。

1900年、下水道に関する規程を定めた下水道法が制定されましたが、この時は下水道に屎尿の受け入れを認めていませんでした。
そもそも、こうした都市下水道では汚水処理機能を持たないと、屎尿を其の儘受容れたのでは、環境が悪化するのは目に見えている事で、既に欧州では経験済みの事でもありました。

屎尿処理に関しては、同じ都市に制定された汚物掃除法で規定され、その処理の義務は地方自治体ではなく、住民(土地所有者、使用者、占有者)が負うことになっていました。
とは言え、その実態は、相変わらず近郊農家もしくは仲立ちの専門業者による汲取りであったりします。

その汲取りですが、江戸期にはその処理は長屋の場合だとその家主が特定農家と契約し、農家はその家に対し、幾ばくかの農産物を以て謝礼に変えていました。
明治期になると、ご一新のドサクサを嫌った家主が、長屋の住人にその持ち分を安い金額で売ることもあり、長屋と雖も、借家人から一国一城の主に変る事も多くなります。
従来は、その地域が特定の農民に任されていたのですが、その関係が崩れた為、他地区の農家が入り込んで従来の権利を有していた農家と喧嘩になることも屡々。
後、明治期には、農家からの謝礼が、農産物から金穀に変っていくケースが多くなります。
金額は戸口当り幾らと言う形で決められ、持家と借家ではその金額が異なりました。
また、役所など公関係の建物だと、完全に金納となります。
その中でも、学校、特に小学校は、育ち盛りの子供達の小便(これが肥料としては栄養満点とされていた)しか汲み取らないから、相場よりも高い金額での支払いを求められました。
まぁ、この収入が夜学の蝋燭代とか、学習困難家庭の救済に充てられていた訳ですが。

話が脇に逸れましたが、例えば、先ほど触れた農家同士の喧嘩。
これがやくざ者同士だと、切った張ったの世界になるのですが、彼等の喧嘩になると、肥担桶はこちらへ、柄杓があちらへ、汚物は飛び散るは、悪臭は立込めるは、えらいこっちゃの大騒ぎになる事もあり、1920年には法が改正され、汚物処理槽(つまり、浄化槽)で処理した屎尿は、下水道や河川に放流しても良いことになりました。
1930年になると、この屎尿収集処分は、自治体の義務となります。

これは都市人口の急増に比して、屎尿処理など汚水の処理を今まで放置してきたことも一因です。
1919年に都市計画法が制定されますが、都市衛生の重要性は認識されていたにも関わらず、上下水道の整備、廃棄物処理に関する条項は含まれていませんでした。

1920〜23年に東京市長だった後藤新平は、1922年に東京市制調査会を発足させ、顧問にニューヨーク市政調査会専務理事だった、チャールズ・A・ビアドを招聘し、3ヶ月間東京市の諸問題を調査させています。
その結果、ビアドは、報告書『東京市政論』の中で、東京市行政部の組織によって達成すべき事業として、第一に下水道の完成を掲げ、第四に道路舗装と歩道を建設する際に、電線の埋設と水道工事を行うことで効率化を図るべしと書いています。

日本の屎尿処理に関しては、1910年代後半から都市部では人口が増大し、屎尿が多数出る一方、農家は生産性を上げる為に、屎尿を中心とした有機肥料から即効性のある化学肥料に切り替え、結果的に屎尿の需要地が減り、供給地が拡大するアンバランスな状態になりました。
1918年には早くも農家や業者による汲取りが停滞し、未処理の屎尿を密かに下水や河川に流す者が続出、1919年に東京市は市費を投じて屎尿の無料汲取りを開始しましたが、処理量の増加に追いつけず、1921年には屎尿の有料汲取りを開始し、各地の大都市もこれに追随しました。
名古屋では、1920年に肥料会社に汲取りを委託しますが滞留が増大、1923年には終末汚水処理場を備えた下水道が一部完成しますが、同時に海洋投棄も開始して問題となりました。
大阪でも汲取り業者が屎尿を川筋に流し込んだり、汲取りの遅延で家庭のトイレが溢れると言った事態が続発し、1922年に市営処理施設を設け、市営で汲取りを開始しましたが、これも状態の解決に程遠い状態でした。

総じて、日本の大都市に於ける屎尿の農村還元システムは、1920年代には破綻していた訳です。

この問題を解決するには、下水道を敷設し、トイレを水洗にすることでした。
水洗トイレ自体は、明治中頃から横浜の外国人居留地、東京のホテルにボツボツ設置される様になり、明治末期には個人住宅でも極めて稀ながらも設置が行われる様になります。
しかし、流すのは良いけれど、その行き着く先は「?」であり、処理は適切に行われたとは言い難い。

1930年に汚物掃除法が施行され、屎尿処理は自治体の義務となり、手数料徴収も認められますが、一方で農家の汲取りも続きます。
業を煮やした東京市は1936年、遂に強権を発動し、下水道設備のある地区での汲取り式便所の新設及び使用を、例外規定はあるもののほぼ禁止し、水洗化を市民に求める様になります。
しかし、1939年の段階でも未だ下水処理区域内での普及率は26%程度でした。
とは言え、名古屋や大阪、京都などの他の大都市では10%未満ですから、大分健闘した方です。

意外なことに、一番水洗化率が高かった都市は岐阜市で、1934年から下水道工事に着手し、1937年には処理施設を完成させ、全市3万戸の住宅に陶器の便器を据え付け、長良川から引いた水を流すシステムを整えたことにより、普及率98%と極めて高い数字を残しました。

水洗トイレという存在は、戦前、下水処理区域内では然程珍しい存在ではありませんでした。
商業ビルや百貨店、学校、役所などの重層建築物では、既に配管工事を行うことで、水洗トイレの設置が進んでいきました。

一方、民間住宅への普及が進まなかったのは、コストが明らかに高かったと言う問題があります。
名古屋市では、汲取り式便所の汲取り手数料は、1939年でトイレ1対(大小便器)で月48銭なのに対し、水洗トイレは水道料金が月平均20銭増えると計算されています。
これだけでは、汲取り式より安いのですが、トイレの改造費は1935年で最低60円と言う記録がありますが、日中戦争後の物価騰貴で、最低料金は上がり続け、1939年時点で95円、平均すると100円を超えています。
これが、高品質のものにすると、一般住居用標準的衛生設備工事一式の概算価格は、上下水道が完備されている地区の場合でも、設備器具費203円+取り付け費と管敷設が160円の合計363円。
上下水道が無ければ、上水管、宅地下水工事一式、衛生器具、給水ポンプ、浄化装置一式、管類敷設工事など諸々合せると700〜1,200円と、正に家一軒が建つ値段に達してしまいます。

尤も、こうした状態は時代は下っても変らず、1960年代初頭でも民間住宅のトイレ水洗化率は10%未満、1980年代には水洗化率は60%に近づきますが、下水道に接続する水洗トイレの比率はその半数に満たなかったりします。

要は、自らの排泄物に対価を支払う感覚が、行政、一般国民とも希薄だったと言えるでしょう。

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