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今週末から三連休。 乗り潰しで一番長い残存距離を誇っているのが、松浦鉄道の75km。 後、南阿蘇鉄道とか高千穂鉄道(は休止中ですが)とかくま川鉄道とか沖縄のモノレールなど九州南部の鉄道が残っているので、この連休期間中にその辺りを潰しておきたいなぁと思ったのですが、この週末、どうやら台風で九州地方は大荒れになりそうな予報です。 となると、嵯峨野観光鉄道で京都に行くか、富山の富山ライトレールに乗りに行くか、名古屋地下鉄の未乗区間と名鉄の犬山遊園モノレール…は未だ廃止になってなかったかな。 しかし、京都は秋に京阪の新線が開業するから其処まで待つのも一つの手ではある。 てことは、北陸か名古屋辺りに行くかなぁ。 …しかし、切符を未だに取っていなかったりします(笑。 なので、結局、三連休家で引き籠もりしてるような予感が。 さて、以前、和船の洋船擬きの話をやってた訳ですが、明治維新で西洋文物の取り入れが盛んになると、1869年、政府は西洋形船舶奨励の布告を発します。 これにより、個人で汽船業に乗り出そうと言う人々が現れる様になりました。 とは言え、汽船の購入は大きな投資になるので、実際に運航する人は、大名家の藩船を委託されたり、貸与されたりして代理で運航する形態が多い状況でした。 その最も早い部類なのが、1869年に紀州徳川家の汽船千里丸、萬里丸など6隻を借り入れ、紀萬汽船と言う名称で、神戸と横浜の航路を開設し、貨客の輸送にあたった紀ノ国屋萬蔵でした。 この千里丸は1,208トン、萬里丸は1,461トンと当時日本で最も大きな汽船で、紀萬汽船は当初大きな利益を上げていましたが、次第に航海術に優れた外国の船会社が同航路に進出すると太刀打ち出来なくなり、翌年の1870年には早くも左前となり、年末には閉業してしまいました。 汽船会社の最初は、1869年10月に設立された通商会社と言う会社で、この会社の通商丸と言う汽船は、東京〜横浜〜神戸〜大阪に就航して郵便物や貨客の輸送を開始しました。 そして、1870年11月には後の三菱の創業者である岩崎弥太郎が、土佐開成社を九十九商会と改称して、土佐山内家の藩船である夕顔丸、千歳丸、浦戸丸の3隻で東京〜大阪〜高知の航路を開設し、兵庫東出町に本拠を置いた薩摩屋は、島津家所有の元藩船豊端丸、寧勢丸を借用して、兵庫〜鹿児島の航路を開設します。 また、神戸の光村弥兵衛が、造幣寮所有の汽船運貨丸の運用を委託され、大阪〜神戸の航路を運航したほか、1872年には運貨丸の払下げを受け、更に外国商社から外輪船内灘丸など所有船6隻を持って、大阪・神戸〜高松・鞆・下関・博多・長崎を結ぶ月3回往復の定期航路を開設。 1873年、更に長崎の萩商社は、ヲテント丸で大阪〜博多間月3回往復の貨客便航路を開設します。 これは、大阪と博多の他、神戸〜多度津〜(室津)〜三津浜〜三田尻〜下関と寄港していた様です。 大阪を起点にした航路は、明治初年頃は大阪と各大名家の領地を結ぶ航路が主で、和歌山へは回運丸、岡山へは凌波丸、無事丸、徳島へは徳島丸、照天丸、高知へは九十九商会の土佐藩船、多度津へは快鷹丸、博多へはヲテント丸、長崎へは浪速丸、豊浦丸、スタンチ号、兵庫起点で鹿児島へ行く豊端丸、寧勢丸があり、和船の時代と違って、北回り航路には汽船が投入されていません。 尤も、未だ動乱の時期ですから、治安が比較的安定していたのが西日本だけだったと言う事かも知れませんが。 廃藩置県が行われ、中央集権が完成した翌年の1872年からは一層貨客の動きが活発化し、西日本航路が隆盛を迎えることになります。 岡山航路の凌波丸は、高松〜多度津〜鞆・尾道まで航路を延長し、同じく岡山航路の無事丸は今治・広島に航路を延長しました。 更に高松航路が開設され金刀比羅丸が就航、阪神間航路の白水丸は、今治〜三津浜〜上ノ関〜三田尻〜下関に航路を延長、また蒸気船ペルリン号が大阪〜神戸〜多度津〜三津浜〜三田尻〜下関へ月3往復就航するなど賑やかになっていきました。 船籍と船主の内訳は、大阪が12隻(12名)、神戸が9隻(9人)、和歌山、網干、徳島、高松、今治、柳井、熊本、京都など33隻、外国人所有船5隻(2名)となっています。 因みに、当時の汽船の運賃は多度津まで特等船室(家室)が1部屋6円50銭、上等1人2円50銭、中等1円75銭、下等1円25銭と結構お高かったりします。 こうした汽船の就航は、各地の観光地を活性化させました。 例えば、別府には大阪開汽船の益丸と言う汽船が航路を開設することとなります。 1872年建造の最新鋭蒸気船で、木造船、68.9トン、28.8馬力の蒸気機関を積んでいました。 この船は大阪から月1回、多度津〜鞆〜三津浜に寄港し、別府に入港する航路を取っており、これにより、別府の温泉が関西の人々に知られる様になりました。 1875年になると、別府の有志が汽船の誘致を図り、別府と大阪の間に、安全丸、満珠丸、金刀比羅丸、凌波丸(後に大分丸)が就航し、定期航路は週1便になっていきます。 この時期は、先の航路に加え、三津浜と大阪・神戸を結ぶ天貴丸(1873年就航、1874年廃航)があります。 1874年、大阪〜神戸に鉄道が開業します。 これに伴い、速度の点で全く太刀打ち出来ない阪神航路は廃止され、余剰となった船は、他の航路に振り向けられることとなりました。 こうした船には、大阪〜播磨間に就航した金星丸、大阪〜淡路間に就航した淡路丸、先ほどの益丸も転身組ですし、大阪〜徳島間航路に就航した津田丸、大阪〜和歌山間に就航した旭光丸、大阪〜豊後・南予間に就航した酒田丸があります。 この他、中国地方や九州西海岸に航路延長する船も多く、大阪を中心とした瀬戸内海の各港に汽船が就航し始めます。 特に、多度津と三津浜には水や食糧などの補給から多くの汽船が寄港する様になりました。 明治10年代に入ると、広島県内の主要な港に和船と共に蒸気船や西洋型帆船の姿が見られる様になります。 当初は鞆と広島だけでしたが、尾道、松浜(糸崎)、忠海、御手洗、竹原に寄港が始まっています。 また、大阪〜岡山航路は延長され、高松に寄港する様になり、別の会社は大阪〜岡山〜高松〜多度津〜鞆〜尾道〜広島を毎月5〜6往復する定期便を開設しています。 そして、汽船業界に大きな影響を与えたのが西南戦争でした。 |
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ゆいれーる乗車の際は御連絡を |
島の人 2008/07/17 07:50 |
紀州藩の船はけっこうあとになっても残っていたらしいですね. |
消印所沢 2008/07/17 22:41 |
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