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甲府と言えば、武田家の本貫の地であり、武田家敗亡後は一時徳川家が支配しますが、その後、秀吉は関東に移封した徳川家に対抗する為、羽柴秀勝、次いで加藤光泰が封ぜられますが、1592年に釜山で死亡し、翌年、浅野長政、幸長が封ぜられました。 しかし、1600年に関ヶ原で徳川家が勝利すると、浅野家は紀伊に追い払われ、甲府は家康の直轄地となり、城代には平岩親吉が赴任して、徳川家支配の地ならしをすることになりました。 1603年、家康の第9子義直が武蔵忍から転封しますが、幼少であり其の儘平岩親吉が城代として補佐しており、彼自身も封土には来ず、駿府での生活となっています。 1607年、義直は尾張に転封し、平岩親吉も犬山に転封となりました。 暫くは幕府直轄地ですが、1617年に秀忠の息子忠長が転封して、俗に甲府宰相と呼ばれる様になります。 1625年に忠長は駿府に転封し、後に家光に填められて失脚、甲府に蟄居し、後に除封されることとなりました。 次に来たのが、1651年の家光の次男である綱重です。 そして、1678年、綱重からその長男綱豊へと代が変り、彼は順調に昇進して、俗に甲府中納言と呼ばれる様になりました。 1704年、綱豊は将軍世嗣として江戸に移り、後に将軍家宣となりました。 その代わり甲府に来たのがかの有名な柳沢吉保。 しかし、程なく綱吉が没して彼も昔日の状無く、1709年には隠居し、隠棲生活に入りました。 彼の跡を継いだのが吉里で、1724年に大和郡山に転封となり、以後、幕府直轄地として統治されます。 甲府城を築いたのは、このうち、浅野長政です。 彼が城を築くまで、館や町の用水は町の西側を北から南に流れる相川、その西の釜無川支流荒川の水を用いていましたが、城下町の発展に伴い、と言っても、井戸を掘っても良い水に恵まれなかったので、文禄年間に甲府用水が造られたと伝えられています。 但し、この話は、1746年の町年寄から役所に提出した御用水の沿革を書いた『口上書』であり、実際の記録として甲府用水が出て来たのは、1661年以後です。 水源は荒川から引き、また相川からも引きましたが、上流は流域村落の田用水(灌漑用水)で、甲府城下に入ってからは町中の上水(飲料水)として用いられ、下流域になると流末村落の田用水になると言う複雑な構成となっており、その水の利用法について、村方と町方との間では紛争が絶えませんでした。 更に、この用水を用いているのは、町人ばかりでなく、武家も用いていますから、更に権利関係が複雑になっていきます。 例えば、水上の武家屋敷で余り大量に水を消費すると、水下の町方では水が行き渡らず、末端では減水、時に断水する状況になります。 こうして、紛争が絶えないので、町の長人や町奉行が間に入って調停に努めました。 一方、田用水の堰が破損した場合も、普通の用水では村方の負担になるのですが、町方は水下にあって貰い水と言う弱い立場なので、屡々町方で費用を負担することになったりします。 更に、村方の支配は代官、町方の支配は町奉行と、双方異なった統治系統であることから、更に問題は複雑化する訳です。 田植え時に渇水ともなればその対立は深刻さを増します。 田には水が必要ですから、上流の村方は十分な水を取入れますが、それをすれば、下流の町方には水が廻ってこなくなります。 これではいけないと、元禄年間には「時水」あるいは「四時八時」と言う取り決めが考えられました。 要は時限給水で、午前6時から4時間、午後2時から4時間は町方用水とし、それ以外は村方用水すると言うものですが、こんなもの、上流の村方にとっては屁でもなく、屡々田植えにだけ水を用い、下流域の事は全く考えない暇に出る場合もありました。 1693年5月には、日照り続きで水田用にも事欠くので、町用水の給水時間を停止し、最終的に停止したりもしています。 雨が降れば水は濁り、日照りが続けば田用水が主で町に水が廻ってこない。 こうして、町方は武家も町人も困り仰せました。 これが若干改善されたのが柳沢家の統治時で、相川の水量では不足だったので、荒川から湯村・塩部を経て市街に引入れていた用水路が追加されます。 この用水路は、両側を石垣で積んだ開渠でしたが、後に石蓋が設けられました。 この水路や用水樋は破損しやすく、修理は何度も行われています。 この他、荒川の水を上飯田村から取入れ、西青沼村を経て、市中に通じる用水路もありました。 寛文以後には、水路取締りの為、こんな用水制札が掲げられています。 一、此用水に於て魚を取、水をあび何にてもあらい申間敷候事 甲府の町中の用水は、現地管理は町方で行われ、水見という番人が置かれています。 町年寄から交付された門鑑を持って、茂兵衛と言う者が長く曲輪内の水見張りをしました。 水見には、老朽化した堰の漏水防止業務がありました。 藻屑が堰に掛かっても破損の原因となるので、それを取り除いたり、上流の武家地で不当な水の使用をしているのを発見すれば、即座に報告していました。 例えば、1718年に武家屋敷を見回っていた茂兵衛は、水を必要以上に使っている屋敷を見つけました。 茂兵衛はその取入れ口を塞いでしまいます。 当然、その武家はカンカンに怒り、町年寄を呼べと大変な剣幕だったそうです。 中には、分水の流末を他へ放流して知らん顔しているので、注意して堰き止めても、又取り払ってしまうとか、町内の枡形(分水枡)近くで小便をしてみたり、堰の近くへ平気でゴミを捨てるなどの行為が跡を絶ちませんでした。 町方の悩みは尽きることがありません。 まぁ、一代で大きくなったような成り上がり(と言っては失礼だけど)の家なのでそんなにモラルの高い武家ばかりではなかったようです。 1724年からは幕府直轄地となって、甲府勤番支配と代官支配による直轄地行政が行われる様になります。 勤番支配制となりましたが、この甲府勤番と言う役職、旗本達にとっては左遷の部署であり、元来が勤務成績不良の者ども。 彼等に用水の知識があろう筈もなく、その交代も頻繁であり、町人側で問題を提起しても、用水の由来、用途、前例を尋ねるばかりで、全く彼等の身になって考えてくれる人はありません。 その上、公儀費用の持ち出しは少なくする算段が強く、解決も事なかれ主義であって、用水の抜本対策なんぞは夢の又夢状態だったりします。 勿論、武家方も江戸表に伺いを立てては居ますが、所詮は左遷の地であり、まともな返事が返ってこようはずもありません。 この頃から、当然公儀費用で賄われるべき用水修理工事費用に対し、段々と町方費用の割合が高くなってくる様に成ってきます。 支配方の枡形、掛樋、埋樋の老朽化によって漏水が多くなっても、修理費はなるべく町方に負担させる為の手段として、その工事繰り延べも行われたり…。 そして、1746年には延享の大改革と言われる、用水費用の割当制度が始まりました。 その内容は、従来、江戸表に伺いを立ててやっていた枡形や樋の修理で公儀負担にてしてきたものを、今後は江戸の徴収方式に従って、武家方は石高割、町方は小間割で普請金として出すと言う方式にするというものでした。 上水の検分役人が江戸表からやって来て、この計画が打ち出されたのは、1746年12月。 そして、金額の取り立ては1747年正月29日までに行えと言う、ご無体な計画。 町方では大変な騒ぎとなり、正月20日には御式台まで直訴に及びますが、数日後各町代表は御白州に呼び出され、「これ以上言い張るならお咎めを受けることになる。町中町内残らず相談の上、割当の金を出すよう返事せよ」と言う強圧的な物言いで、とりつく島もなく、結局、3月28日に町方は出費割当通り万事承諾した旨の請書を町名主連名で提出し、この騒ぎは落着しました。 勿論、武家方にもこの費用徴収は行われています。 そして、以後、この割当制度は明治に用水が廃止されるまで続いた訳です。 |
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